趙の風雲児――天武への書簡

姫傑はすごすごと帰ってゆき、天武と后戚だけが残った。素早く身支度を直した后戚は、憤慨足らないという風に、憤っている。

「あれが、王か? 信じられぬ。まあ良いわ。介抱の恩は返したぞ」

「何もしていないじゃありませんか。指が搔き回して行きました。私を虚仮にしますと、遊侠がわんさかと押し寄せますわよ」

「それは、あの男に言え。私は忙しい。半日を無駄にした」

 そろそろ陸睦と香桜が合流する頃合いでもある。天武は最後に后戚を振り返った。

「后戚。仙人は、おると思うか」

 后戚は頷いた。頷いて続けた。

「過去に、私は華陰におりましたの。そこで、秦の侵略に遭ったのですわ。誰も信じて下さいませんが、私は龍の仙人に助けられましたの。大きな龍に乗って、麓の邑に逃がされましたわ。私、それ以来、密かに待っておりますもの」

「その男の特徴は!」

 后戚は、かんらかんらと笑って見せた。「笛がお上手で」と手を振った。

 ――香桜……。 

(もう、いい加減、問い詰めるべきだ)

 もしも、あやつが仙人なら、庚氏を救えるはず――そうだ、庚氏は、庚氏の容態についても、秦に問わねばならない。

 后戚の肩に肩掛けを掛けてやり、天武は楼閣を後にした。

 母の行方は探れなかった。朱鷺は楼閣の庭に繋がれており、跨がったところで、気配を感じた。

「久しいよな、天武。いや、趙政」

 見れば姫傑が楼閣の柱に寄りかかり、果実を齧りながら、天武を睨んでいた。

「気付いていたか」

「おまえの馬、俺の愛憐とは乳兄妹だぜ。後は秦の長城の下り。おまえ、長城に〝追いやった〟って口にしたろうが。驚いたぜ。なに? 一人寂しく里帰り?」

 ――この、人を小馬鹿にする物言い。だから、こいつは嫌いだと、唇を強く噛む。いっそ馬で蹴り殺そうか。だが、それでは統一にはならない。

 王を殺したからといって、領土が手に入るわけではない。国が国に入り込み、奪い尽くして、初めて統一となる。それには、王は無残に死なせる必要がある。

「貴様は殺さぬが、やがて秦軍は、趙を踏み荒らす」

「趙姫がどうなってもいいならな」

 思いもしなかった言葉に、天武は僅かに動揺した。瞬間、憎しみが燃え上がった。

「趙姫は、生きてるよ。俺が仙人に頼み込んで生かしてやったんだぜ。礼くらい言えよ。てめえが逃げなかったら、俺の母は死ななかった。……嬲り殺しても足りないって」

 天武は言葉を封じた。

「ケ。そういう態度かよ! 解った。望み通り受けてやらあ! 兵力を言ってみやがれ」

「百二十万。すべてを潰す。それか、秦に与するか。だが、おまえだけは許さない」

 姫傑は目を見開いたまま、「は、はは」と声なく笑い、食いかけの果実を放り投げた。

「一つ、聞きてぇ。斉梁諱と褒姫を殺したか」

 天武は馬を引きながら、頬を拭った。投げた果実の汁が飛んだのだ。翠蝶華を思い出す愚行の数々に、押さえきれなくなる。

「褒姫? ああ、もしや、あの口の利けぬ舞子か? 捨てろと指示をした。斉梁諱に関しては、長城に追いやり、斉の約束を果たしたまでだが」

 かっと姫傑の目が赤く染まった。だが、その両眼からは涙が溢れ、天武は莫迦かと目を逸らした。

 ――敵の王の前で落涙などする男、相手にもできぬ。

 姫傑は天武の前を横切り、背中を向けて告げた。

「天武、俺は幼少、あんたに多少は憐れみを感じてたぜ」

 鼻に抜けるような掠れた声音の後、姫傑は怒りを滾らせ、唸りを上げた。

「だが、今ようやく分かった! てめえは、悪鬼だ。悪鬼に勝つには、俺も悪鬼になるしかねえってな!」

 二人は、しっかりと睨み合った。が、姫傑は一声「覚悟しろよ」と洩らすや、それきり背中を向けて、皇宮に向かって消えた。

 天武は馬を走らせ、凍った皇宮を見つけた。もう驚きはなかった。

 ――次は、大軍を持って趙を滅亡させる悪鬼として、再び現れよう。

二度と振り返らず、天武は水門を駆け抜けた。

                 *

その頃、天武の軍には秦からの早馬が到着し、天武への書簡が届いていた。

慌てて作成したらしく半分が割れており、内容は〝正妃・庚氏危篤〟――。

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