趙の風雲児――西蘭


 姫傑は趙姫の離宮に辿り着くなり、無我夢中で門番を蹴散らした。

 眼に映る髄を凝らした贅沢な作りの彫像の龍を睨み、棍を振り回す。豪勢な作りの金龍は瞬く間に破壊され、けたたましい音と共に倒れ、崩れた。

 西蘭と来た道を思い返しながら、感情に任せて足を進めた。趙姫の離宮は、人員を割かないのか、滅多に人とすれ違わない。廃墟も同然だ。

 どの部屋にも仕切りを置く習慣がないのは、野蛮な遊牧民族の名残か。

「あ、姫傑さま」

 呼んだのは、趙姫ではない。終わった後に余韻を楽しみつつ、撫で回していた男であった。逸物を出したままの男は、男嫌いの姫傑からの八つ当たりを覿面に受けた。

「汚いもん、ぶらぶら出してねえで、出て行け、邪魔だ!」

 掠れ声の罵声。男がひいっと飛び上がった前で、趙姫は何事かと目を見開いて、姫傑を見つめ、また「子供なぞ、おらぬ。天武など、知らぬ」と繰り返した。

 むかっ腹のまま、趙姫の髪を掴んで、至近距離まで持ち上げた。

 姫傑は持参した酒を乱暴に開け、呷った後で趙姫に無理矢理に飲ませた。強い酒に趙姫は噎せ返る、姫傑は、しれっと答えた。

「しらふで話など、できそうにねえよ。てめえの子供、本気で、あんたを捨てると言ったぜ、趙姫さん。聞いちゃいねえんだろうがな。はん、俺が欲しいかよ」

 残虐性を煽られて、乱雑に倒した。

「そうかよ。何でも構わないってか。天武の率いる百二十万の兵力に踏み潰されてえか、それとも、俺にこのまま嬲られるか。どっちか選べと言ったら、どうする」

 幾人をも受け入れた狂った女体が、腕の下で蠢いた。どうやら答は後者だ。細い首に手を当てたとき、ふわりと桜の香が姫傑を取り巻いた。

(褒姫の匂いがする)――そう言えば今こうして着ている上着は、斉梁諱のために褒姫が抱き締めていたものだ。なぜ、今頃になって香ったのか……。姫傑は動きを止めた。

〝何をやっているのですか。殺生はだめと申し上げましたでしょう〟

 貴人に操られ、欲を膨らませたところを突かれ、理性を飛ばした過去は、まだ生々しく姫傑に影を落としている。淡い感情は、泥の中に落とされ、残酷な感情だけが残った。

 褒姫は、姫傑が狂う事態を許さない。怒りは瞬く間に消えてなくなった。

 誘う趙姫の肩を押しのけ、立てた膝に寄りかかった。顔を背け、何だか可笑しくなって、笑いを零した。

 ――褒姫は今も、色鮮やかに、この胸の中にいる。

「冗談だ。天武の母なぞ、抱けるか。見損なうんじゃねえよ。あんたの辛さも分かってんだよ。天武の辛さもな。だけどよ、逃げて逃げて、どこに行くんだ。白龍は、あんたを愛してやいねえんだよ。莫迦くせえ」

 また頬に冷たさを感じる。顎まで涙が伝って、ぽとりと落ちた。

 ――いや、莫迦は、俺か。敵の母に同情して泣いてんじゃねえよ。やんなるぜ。

「それとも、待ってんのかよ。天武を? 仙人を?」

 趙姫は、すうと寝てしまった。

(しまった、酒が利きすぎたか)と、ふらふらした頭で考える。

 ――この後に及んでまでも、どうして天武と戦う気力が出ねえのか。

 どこかで戦いを避けている己に気付き、うんざりして、早足で離宮を出た。

「あ! 姫傑!」と剽軽な声がして、さっそく姫傑を見つけた西蘭が叱咤しながら、小走りで追いかけて来る。気がついて足を止めた。

「西蘭か。相変わらず、色気がねえな」

 すぐに文句を言い出した唇を吸って、不思議そうにきょろりと動く瞳を見つめた。

 小柄な西蘭を抱擁して、ほかほかと伝わる温かさを噛み締める姫傑に、西蘭はいつになく声を弾ませた。

「喜びなよ。河が凍ったお陰で、趙以外の軍とも合流できた。もう配置済みだ」

「兵力は、どんくらいだよ」

「何を凄んでるんだよ。八十万だ。充分だろ」

「足りねェ」

 天武は、百二十万で潰しに来る。

 焦りが逸って、姫傑は言い捨てた。

「掻き集めろ」

 西蘭が不愉快そうに聞き返す。胸ぐらを掴んで、睨み付けた。

「足りねえんだよ! 女も、子供も、歩ける者はすべて兵力に回せ。武器を与えるんだ。片っ端から引きずり出せ。天武には負けたくねえ」

「分かった。じゃあ、ちょっと近寄って屈んでくれるかい?」

 言うとおりに背中を曲げた。

 西蘭の手入れされた手が、姫傑の頬を包み込む。西蘭はすうと息を吸うと、爪先を伸ばして、にっこり笑って勢いよく頭を振った。

 ごいん。

(うっ……)

 姫傑は額を押さえて動きを止めざるを得なくなった。脳がびんびんと震動している。

 へへんと胸を張っている西蘭を涙目で睨み下ろした。

「てめ、西蘭! 何しやがる! おー、いってーっ……」

「眼が醒めたかい? 何だ、この石頭! あいたたたたた」

 仕掛けた西蘭の瞳も潤んでいた。お互いの石頭で、打撃は大きかった。二人とも揺れた視界に慣れるまでを無言で過ごすはめになった。

 ようやく西蘭が、涙目で正面を向いた。

「あたしも戦うよ。一緒に。決めた! あたしは今から、あんたの正妃だ」

(頭突きカマして、正妃もクソもねえよ。色気がねえって言ってんだろ)

 言葉の出ない姫傑に笑って見せて、西蘭は続けた。

「せこせこ考えてんじゃないよ。みんな生きる意味があるから、存在してるんだ。姫傑。何があろうと、あんたは生きる! 河が凍ろうが、皇宮が凍ろうが、あんたの心は決して凍んないからだ。いっつも熱くして、莫迦みたいに、おっ勃ててるのがあんただろ」

「もっと言い方ねえのかよ。貴妃が呆れるぜ」

 西蘭は拳にした手で、ごん! と姫傑を再び小突いた後で、凛々しく服の裾を捌いた。

 長く伸ばした帯を引き摺って、背筋を伸ばして一喝する。

「行くよ! みんな、あんたの勝利を信じてんだ。王がふらふらするんじゃない」

 凍り付いた河を、斜陽が照らしている。ふと、天武の軍はどこまで押し寄せているか、姫傑は思いを馳せた。

 小柄な頭に頬をすり寄せて、抱き竦める。

「西蘭、俺な。負ける気も、勝つ気もしねえんだ。ただ、正々堂々と迎え入れてやるだけだ。そんで、いいのかな」

 西蘭は、それでいいとばかりに笑ってくれた。ただ、突き進む覚悟だけを考えろと言わんばかりに。

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