趙の風雲児――韓を超え、斉を横切り、趙
天武の軍は僅かに先導部隊が減っただけだった。
河の上を進み、途中足が凍り付き、動かなくなった馬を捨て、河を走り続けた。日没には泗水の支流を分岐する三角州に辿り着き、ようやく陸が見えてくる。兵の一人が懐かしそうに一声を上げた。
「ここは、韓だ」
陸睦の率いる軍の少年は、大半が戦争を経験せず、秦に亡命した親の子供であり、故郷を知らない者が多い。皆、馬を止めてしまった。涙ぐむ者が出始めた。
呆れた陸睦が愛剣を手に、天武を窺う。
「斬りますか」
「いや、いい。陸睦、ここまで来れば、あとは斉を横切り、趙に入れる。大梁を目指せ。香桜の軍が辿り着き次第、趙を攻めよ。戦車を楯に、燃やして先陣にし、武将は皇宮を目指せ」
天武は馬を寄せると、手綱を強く掴んだ。
「後は任せた」
陸睦の返事を待たず、脇腹を蹴った。ただ、走り抜けてゆくと、斉の海が眼に飛び込んだ。
広く拡がる水面をろくに見ずに、横穴を見つけ、馬を走らせる。水位の上がった洞窟は暗く、蝙蝠がわんさかと飛んでいる。
「邪魔をするな!」
一喝して、夜の岩窟を走り抜ける。走る度に凍り付いた河が眼に映る。
(確かに、仙人はいる! 見せつけるな! 永遠を!)
陽が差して、いつしか朝が来たのに気付いた。天武はようやく馬を止めた。
美しい世界が拡がっている。洞窟を抜け、趙の手前の山麓に、朝露と冷気が被り、宝玉の如く木々を光らせている。
うっすらと積もった雪は白く、趙の水門を銀色に輝かせていた。行く手を遮る大きな水門は、幼少に恐ろしかった。何度も引きずり出され、水流に落とされた。
(相変わらず厭味な水門と風景よ)
だが、大嫌いな水門をなぜか懐かしく感じる。
紛れもなく、此処が故郷なのだと教えられているようで、天武は悔しさを噛み締めた。
――そういえば、とうとう趙の王の名は、わからずじまいだった。
「無理をさせたな、朱鷺。どうしても、一人で来たかった……変わらぬ水門よな。おまえも懐かしかろう、覚えておるか? 春の夜、共に秦に向かったろう」
母を捨て、まやかしの父の元に向かい、秦の王に即位した、それまでの時間は瞬きの如く過ぎてゆき、また、こうして、同じ地に立っている。
「仙人がおるなら、探さねば。フフ、死なれては、目覚めが悪い。腹の子も、母なくては可哀想だろうしな」
気が緩んだ瞬間、世界が流転した。
朱鷺の上にのし掛かり、天武は上半身を凭れ掛けさせ、ふと瞼を閉じた。脳裏で、赤い袖が舞い、赤立羽蝶が緩やかに飛んだ。蝶はゆっくりと、女になり、泣き顔の翠蝶華になった。
――何が何でも、死なないで……戻って来るのよ。
(ああ、翠蝶華……私は戻る。ああ、必ず……)
朱鷺が小さく鳴いた。四肢は、どさりと落ち、雪の感触を朱唇に感じた。
「まあまあまあ」と遠くで女の声が響いた。とても翠蝶華に似ていた。
11
ぱたぱたと音がする。しゅんしゅんという水音は湯を沸かしているのか。ふと眼を開けると、覗き込んでいる顔があった。
(ここは……?)
後宮に似ている。秦に戻ったのか。いや、天井に翡翠の龍が描かれている。こんな部屋はなかったはずだ。
起き上がろうとして、叱咤された。
「いけません! あなた、楼閣の前で馬から落ちたのですわ。しばらくじっとしてませんと、眼が回りますよ」
(落馬した? 私がか? そんなはずがあるか!)
むっとして起き上がろうとして、ぐわんと世界が回った。「ほら見なさい!」と女が嬉しそうに勝ち誇った口調で言い、微笑んだ。
「驚きましたわよ。花街の二階回廊で、私、美味しい麩饅頭などを戴いておりましたら、馬が一頭、水門にいるじゃありませんか。綺麗な馬だなと思って見ていましたら、どさり。こんな冬に雪に埋もれたら、凍死してしまいます」
きっぱりと言われ、しぶしぶと寝椅子に体を預けた天武の前で、女は再びにっこりと笑った。何というか、男のツボを心得ている女だな、と思いながら天武は女に見入った。
素っ気ない顔付きだが、不思議と気品がある。紅や着物は最高級の仕立てだ。肌の白さは、生まれ持ってのものか。少しぽっちゃり目だが、健康そうだ。
たちまち、不愉快というような、苛つきの視線がまとわりついた。
「まあ、なあに? 人をじろじろと見て、文句ですか。私は見世物ではありません。名を后戚と申します。こちら、邯鄲の花街、高級楼閣の夢楼と申しまして、貴方は下男に運ばせましたのよ。元は斉にあった……まあ、嫌な時間」
燃えた灰で時間を計っているらしく、后戚は眉を顰め、「この時間になると、嫌な男が来るのですわ」と告げた。
その言葉通り、男がズケズケと歩く音が響いてきた。腰の剣がない。
「私の剣を、どこへやった」
「何ですか。助けて差し上げた人に向かって、文句? 物騒でしたので、こちらに。こんなものを縛り付けては休めないでしょう? ああ、嫌だわ。追い払ってくださらない?」
――なんという事態。落馬した挙げ句に女に介抱され、あまつさえ男を追い払え、だと?
后戚は袖で口を覆い、むっと頬を膨らませた。
「一宿一飯の恩は、返すものよ。棍を持ってる男で、皇族のくせして軽いのですわ。私、何度おしりを触られたかわかりません!」
皇族の言葉で強く剣を掴んで立ち上がった。
もう女は起き上がっても止めに来ない。つくづく女というものはと、いつもの悪態を腹で喚き散らかして、天武は剣を抜いた。
皇族なら、恨みを晴らしたい一人かも知れぬ。
「后戚と言ったか。済まぬ。介抱の礼は返そう。――趙の皇族なら、叩き斬る」
「まあ、お部屋が汚れます。お外でおやりなさいませね。ああ、来た……っ」
元々背丈が小さい后戚とやらが、更に背中で丸くなった。剣を抜いて、戸口で構えた。
鼻歌が聞こえる。ご機嫌だ。
――秦軍がすぐそこに集まっている状況も知らず、暢気な男よ。要らぬだろう。そんな軽い存在など。
「おまえに恨みはないがな!」
出会い頭に剣を振り下ろした。
剣を避けた男が蹌踉け、壁に頭をぶつける音がした。后戚が叫んだ。
「なんてみっともない! やはり、あんたは趙の王なんかじゃありません! 王の名前を騙るなんて。王サマなら、もっとお仕事してますもの!」
静かに剣を納めた後、天武は男の下げている紋章を睨んだ。覚えが在る。顔は覚えてなくとも、男の下げている印璽は、趙の皇族を示す通行証だ。
子供の時、欲しくてたまらなかった。しかも。蹴られた際に何度も顔を打った。
名は覚えていない。趙の太子・皇族は多すぎて、いちいち覚えられなかった。
大きな甕に閉じ込められる時、蓋をしたその時も、紋章は印璽の輝きで揺れていた。
(先ほど后戚は趙王と口にしたな。こいつが王か? 昼間から、楼閣に来るような男が?)
――だとすれば、私が獲りたい首ではないか。
天武は信じられない思いで、眼の前の男を正面から睨み付けた。
男が「何だよ、おまえェ」と立ち上がった。后戚への恩を返すつもりで言い返す。
「昼間から、嫌がる女の尻を触りに来る男が王とは恐れ入るな。趙は恐るるに足らぬ」
「ああ、なンだってぇ?」
すぐに受けて来たところを見ると、基本的に単純。
そう言えば、昔もよく皇族のババアに追いかけ回されていた。それでいて、粘着質な男だ。最後まで、嫌がらせから隠れた天武を引きずり出そうと、夜通し探していやがった。ああ、嫌な記憶を思い出した。不愉快だ。
「悪かったな! いいだろ、気晴らしくらい、してーんだよ。秦の王が進軍してるって言うし、王のやるこた多いしよ。河は凍るし、西蘭には蹴られるしで」
ここにその秦の王がおると、気付いていない。少しばかり愉快になってきた。
叩き斬るのも面白いが、それよりも、母の情報を引き出せそうだ。
天武はスッと剣を寝椅子の下に爪先で押した。秦の紋章を見せないためだ。莫迦と向かい合った。
「趙の異変は聞いておる。そなたが――」
言いかけて(〝そなた〟はまずい)と気がついた。だが、他に何と呼べばいいのか分からず、名を訪ねる判断をする。
「姫傑だよ。あんた趙の民ならさ、王の名前くらい、覚えてくんない?」
男は后戚の尻に手を伸ばし、ぴしゃりとやられていた。懲りていない。王を嵩に着て、やりたい放題とは。なぜか天武が恥ずかしくなった。
――そうそう、そんな名前だった。思い出してきた。こいつ、私を水門に蹴落としてくれた。今度はこっちが泥濘の中に突き落とし、切り刻んでやる番だ。
天武は不愉快を隠しきれず、姫傑は相変わらずのうのうと会話に応じてはいるが、どこか殺伐とするのは当然だ。耐えきれなかったらしく、后戚が話題を提供した。
「か、河が凍りましたわね。お水が流れなくなり、水門も止まりましたわよ」
(あんた、王でしょ。何とかしなさいよ)と問い詰めを含んだ声音だ。
姫傑は小さい后戚の腕を引き、嫌がるのも構わずに腕に押し込めた。
「打つ手はねえなあ……仙人が相手じゃ」
「姫傑、今なんと」
姫傑は足を広げ、更に嫌がる后戚の懐に手を差し込み、緩く動かして見せた。
「仙人さ。あんたは知らんだろうが、この世界にゃ、俺らより、ずっとすげーやつがおるのよ。俺の知ってる、そいつって、確か氷が得意で、んでもって、泥を操るやつとか、ああ、そうそう、秦の長城で、もう一人、でっけー龍を連れたヤツがいたぜ」
「秦? あ、ああ。長城から逃げ出した脱兎か」
眼の前では、姫傑は后戚の口を後から押さえ、今度は太腿に手を忍ばせている。助けようか迷ったが、后戚もまんざらでもないらしく、少し足を開き始めた。
……莫迦らしい。話を進めよう。
「長城に追いやった犯罪者が一斉に逃げた。姫傑もその内の一人か」
(まったく、逃がした莫迦は誰だ。そういや、劉剥の姿も見えなくなっていたが)
「さあなあ?」と首を傾げながら、姫傑は更に后戚に手を伸ばし、指を折り曲げて悪戯を始めた。夜の公務すら拒む天武には、信じられない光景だ。多分、何度かこのような目に遭っているのだ。憐れだが、知ったことではない。
「その話は、したくねえな。まだ、傷が癒えねえから」
「いい加減にして!」と、かっとなった后戚の手が、とうとう姫傑の頬を派手に打った。
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