趙の風雲児――皆、己を信じよ


「天武さま! 河が……っ」

 函谷関を超え、陵墓建設地を通り越し、楚と秦の間の山岳地帯に入るところに、泗水の支流がある。天武の軍総勢五十万は、香桜の軍とは違って、楚を通過する道順を選んでいた。ちょうど次なる支流に向かうために、泗水を横断しようとしていた矢先、空が金色の光を注いできた。奇っ怪な情景を眼に焼き付ける。

 ――嫌な予感がすると天武は燕の最初の戦いを思い出し、誰にも言えぬ、傷が開いた。

(認めたくはないが、黄河を渡った瞬間、あれは天からの救いだった。同じだ)

 これはなんの悪夢かと、天武は唇を噛み締め、兵たちに向けて剣を振り下ろした。

「全軍、渡河を中断だ!」

 パキパキパキ……最初は小さな音だった。だが、やがてガガガガと大きな地響きとともに、河が揺れた。兵が悲鳴を上げている。

「無理です! 先導部隊は間に合いません!」

 泗水の上流から靄が掛かり、河が氷結して固まってゆく。巻き込まれた兵は、急激に冷えた水面に驚き、一瞬で動きを止め、重みで沈んで行く。

 上に分厚い氷が張るまでの時間は短い。次々に河が凍ってゆくのを目の当たりにして、天武は挟まれ、沈んでゆく兵をただ見ていた。

「な、何が起こっている……っ……。これは天の、私への妨害か!」

 口にして、天武は世界が白く染まるのを呆然と見ている陸睦を振り返った。

「陸睦、氷の上を渡れるか」

「無理でしょうね」

 陸睦は怪訝そうに眉を寄せ、すっかり大人びた口調で返してくる。

 昔であれば、恐らくすぐに感嘆の声を上げていたが、日ごと、感情が消え失せてゆく気すらする。

「天武さま、進軍は諦めたほうが宜しいかもしれません。先導部隊は、ほぼ沈んだと思われます」

 唇を噛み締めた天武の手が、無意識に手綱を引いた。陸睦が慌てて馬を引き、前を塞いだ。

「天武さま! 無茶はお止めなさい! 割れたら、凍死ですよ!」

「私の後について来られぬ者は、要らぬわ! この氷は割れぬ! 河を走り、趙に突入できる! 何を臆するか! ゆくぞ、朱鷺!」

 脇腹を蹴った。天武の馬は陸睦の頭上を高く飛び、氷の上に着地し、突っ走った。対岸に着いて振り返ると、困惑した動かぬ馬の大群が見える。三〇丈ほどだが、大軍が氷を行き来すれば崩れる。だが、これは溶けない氷だ。

「陸睦! おまえが臆せば、すべて崩れる。命が惜しいなら、そこで自害せよ!」

 声は届かないはずだった。だが、何頭かの馬が河を渡り始めた。氷の向こうには沈んだ兵が浮かび、凍っている。

(この氷は楚の山脈と同じ、決して溶けぬのだ)

――楚の山脈。枯れぬ火棘……消えた長城、更に華山の崩壊。黄河の空の金色の光。数多の現象を目にしてきた。

だが、これほどの勝機もない。山麓を周り、長城沿いに進むには、皆の馬の技術が拙すぎる。だが、河ならば、速度を上げ、走れる。

氷の道は淮河を通じ、おそらく楚と斉と趙をしっかりと結んでいるからだ。淮河は趙に流れる滏陽河、南の漳河にいずれは合流し、黄河へ還る。

「行こう。邯鄲の手前の関、大梁にて、香桜の軍と合流できる。皆、己を信じよ」

 天武の一声が広まり、兵の動揺は少しずつ治まりつつあった。

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