趙の風雲児――華仙人の悪影響の相克

   

 咸陽を出た香桜の軍は、上郡地方の秦軍と合流した。

なだらかな山道が続いた。途切れた先には、河が拡がっている。

「汾水を横切ろう。大丈夫、浅瀬だ」

 軍師の真似事が板についてきたらしく、元々の声音も手伝って、香桜の気高さは秦軍を突き動かした。

 冬の河に、馬がゆっくりと足を踏み入れ、震えながら進み、渡る。香桜の馬はどうにも萎縮しがちだが、仕方がない。敏感な動物たちは龍の恐ろしさを知っている。

秦が趙への進軍を開始して、半日が経つ。

香桜の軍は、馬で斯道を進み、まず斉に辿り着く目的だ。

趙へ侵入するに当たり、香桜は極寒を指定していた。

 途中、例の長城の跡地を横切ったが、先日の陸睦の惨殺の跡があるだけで、何ら変化はなかった。軍はゆっくりと、北部に登って、現在に至る。

「さすがに、冷えるな」

「こっちは山が凍っておりますね」

 兵の言葉に違和感を感じつつ、香桜は頷いて見せた。

 趙に向かうほど、冷気が押し寄せたが、華仙人の感覚は鋭い。まして天帝ともなれば、瞬時に気付く。人の心の奥までも凍らせそうな、無慈悲な冷気には覚えがあった。

 白龍公主が近くにいる。

「軍師、どうかなさいましたか」

 気遣った兵の言葉に眼を細めながら、香桜は空を見上げ、行く手に見えて来た山麓に向けて、眼を光らせた。山頂だけが凍っている現象は、楚でも、天界でも目にする。氷の悪戯だ。

(もうすぐ夜。奇襲に備え、そろそろ、軍を休ませるか)

「礫、そろそろ歩みを止め、兵に食糧を。周りの敵襲に備えて班を作り、交代で休ませる」

 礫は皇宮の警備を担っていた。天武の惨殺や瞬殺について行けず、香桜の元に集った秦の軍の一人だ。天武の傍は、白起の陸睦を含み、殺害を厭わずに天武の盲目的に従う過激な武将が多く、離散する兵も少なくない。双璧になりつつある香桜の元には、知略はあるが、どこかおっとりしている武将ばかりが揃った。

 兵糧を積んだ馬が現れると、寒さに震えていた場は、一転して和気藹々とし始める。天武の思惑はいずれにせよ、秦軍の中ではこの遠征を楽しみにしている者も多い。

「ああ、俺はあっちで食べるよ」

 麦を蒸かした主食と、練って燻製にした少々の肉を手に、香桜の馬は軍を離れ、山麓に登ろうとした。

 その途端、馬が萎縮して歩みを止め、頑として動かなくなった。

「いいよ、ただし逃げるなよ」

 馬を眼で脅すと、龍気を感じ取ったのか、従順を示し、足を折り曲げて座った。

 小さな山だ。だが、少々険しい。針葉樹林だ。高く伸びた林は源林であり、迷い込めば冥府に落ちそうな霊気を充満させている。華仙人が好みそうな、鬱蒼とした気だ。

 すぐに現れた猛獣を睨んで道を開けさせたところで、足元に何かが乗っかった。

 見れば、肉欲しさで、瓜坊が二匹、足の甲に乗り、香桜を見上げていた。

「あげるよ」と、肉を与えて追い払う。

今度は肉を狙って狐が現れて、香桜に牙を剥いて見せた。

――稀に勝てもしないくせに向かってくる莫迦な猛獣がいるから、困る。

狐を蹴り飛ばして、動かなくなった横を通り過ぎ、香桜は周辺に眼を光らせた。

 氷壁の如く、山肌は凍っている。

 しかし筆でなぞったような麗しい氷の軌跡は、自然にできたものではない。飛び上がって山を離れ、空中で眼下を眺めると、雄大な河が二本、絡み合い、流れていた。

泗水と淮河。

 ――あの二本が絡み合った場所に、趙がある。水門を破壊すれば、水攻めにできるが、水力を蓄えるには、斉の海の勢いも必要だ。

 空気が更に冷えた。地上に爪先をつけたところで、空を振り仰いだ。

「白龍公主、話がある。天帝命令だ。姿を現せ」

 ざわざわと木々が揺れた。山間から、ちらちらと氷の粒が舞い始め、一気に山地は流氷に包まれ、気がつけば、白龍公主の姿があった。黒の長袍に貴妃のような羽衣を肩掛けにした姿は、女性と見紛うほどに美しい。白龍公主は遺憾なく美麗さを振りまいた後、憎々しげに呟いた。

「よく俺がここにいると分かりましたね」

「無慈悲な氷の気を感じた。俺がおまえを抑えねば、秦軍はあっという間に壊滅だ」

 白龍公主は、独特の声音で、淡々と言ってのける。

「莫迦を言う。人間なんて、放置しとけば勝手に争って羽虫のように自滅するさ。そうそう、天帝さま。趙を宥めましたか」

「いいや。千里眼はあまり好きではないから」

 実は白龍公主が天帝の座を狙っているのは、千里眼目当てだと知っている。

敢えて言った嫌みに気がついたが、また淡々と返して来た。

「それは、勿体ない。心配しなくても、俺は此度の戦いになど手は貸さぬ。あの趙の男に酔狂で手伝ってやったまで。俺が、あんたと貴人が嫌いなのは、知っているだろ」

「ああ、知ってる。俺に迷惑を掛けるのが好きなのもな」

 白龍公主は決して挑発には乗らない。冷静で、氷だ。

「龍は孤独で在るべきだ。群れて行動などしない。まあ、俺の志は、珠羽が継ぐ。あんたは本当に汚れ仕事をしないよな。今度は秦軍の神輿か。遥媛公主のババアが怒るぜ。俺は、そろそろ約束を果たしに行く」

 最後の声音の時に、白龍公主の瞳が僅かに潤んだ反応に気がつく。白龍公主は微笑みを一瞬ちらっと浮かべ、愁いた表情で、優しささえ見せた。

「俺の水浴びを見た邯鄲舞姫……ああ、今は、趙姫」

 呟いて、白龍公主はらしからぬ態度を見せた。

「俺には、解せぬ話がある」

 白龍公主が相談を持ち掛ける? 至極、興味深い。

「腹の膨らんだ女を奪いたいと思ったのは、なぜだ。俺は、腹の子供に何かを残したかも知れぬ。隠すほどでもない。確証を得たければ、ご自慢の千里眼で過去に渡ればいいでしょう。趙姫は綺麗な瞳をしていた――」

 両眼が時を渡ろうと、熱を帯びた。焼け付くような痛みの後、香桜の脳裏に、龍眼を通して、情景が浮かび上がった。

 一人の仙人が地上に降り、泉で水浴びを始める。白龍公主だ。

華仙人の水浴びは、神聖なものだ。そこに、身重の女性が現れた。白龍公主は女を殺そうとしたが、できず、あまりの美しさに女もまた惹かれ始める。

 腹の子供が眼に入ったが、厭わずに抱いた後、敵を皆殺しにし、泉を赤く染めたところで、女は子を産んだ。白龍公主の龍気に助けられ、早産した子供は無事だった。

 白龍公主は女と赤子を慈しみ、やがて逃した。

気がつけば、手には種ができていた。蘇芳蓮華の種だ。華仙人は死期が近づくと、種を生む。

楚に渡り、珠羽の母の項母子に種を植え付け、死期を待った。

 数年が経ち、子供を抱いた母親の女と白龍公主は偶然ばったり再会する。

足元の子供も構わず、趙姫は白龍公主にむしゃぶりついた……。

 流れる情景をただ見つめていた香桜に、白龍公主の声が降った。

「女の名前は趙姫、子は天武」

 白龍公主は両腕を広げ、肩を揺すって見せる。

「趙姫の中にいる天武は、俺の龍気を浴びた。姦通した母親を通じ、仙人の子になった。まあ、無理もない。一瞬、赤子を突いた感触がした」

「白龍、赤子がいる内を、何度も搔き回したと?」

 白龍公主は思い出した風情で、うっとりとした口調になった。

「ああ。あんた、こういう話、好きだろうよ」

 香桜は一瞬、白龍公主の精液を否応がなく、母の子宮で浴びさせられた悲劇の赤子を想像した。

さぞかし怯えたはずだ。生まれてすぐに、華仙人の体液を浴びた。唯一、安心する母親の子宮の中で。どこにも逃げ場はなかった――。

(それで天武は、射精を拒むのか)

 天武は夜の行為でも、射精を難くなに拒むと、遥媛公主がぼやいていた。

それは単に秦の王としての種の制御だと思っていた。

天武にとって、生殖はいつしか、母を汚し、子を汚すものだと思い込んで、憎むモノになったのだ。愛の極限を奪った仙人の残虐性は、計り知れなかった。

「貴様の呆けた顔を見るのは、二回目。殷の時代と、今回と。本懐を遂げたな」

 言葉を失った天帝が面白いと、白龍公主は僅かに笑った。

「ここからは龍の子供の食い合い。龍気は移る。人間の内に入り、欲望を膨らませる。秦と趙の決戦は、大量の死を呼び、大地は崩壊する。俺の珠羽も、今頃は昭関にて兵を率い、決起している頃。貴人により、劉剥とやらも。趙は大混戦になる。俺は、混乱が見たかっただけだ」

 言い残すと、空に氷に透けて消えて行った。

白龍公主の表情を思い出した。仙人らしからぬ、一瞬だけ見せた、潤んだ瞳だ。優しい光を携えていた。

 ――覚えがある。龍族は人を愛せば、相手を狂わせる。終わりにしてやるが、愛の終わりだ。悲しき結果が此処にある。

(まさか、本気で天武の母を愛している?)

直接ではないにせよ、天武は白龍公主の影響を受けた。受胎の段階で、龍気を浴びていたから、所々が仙人に近い。ようやく謎が解け始めた。

だからこそ、天武は仙人を憎む。本能だ。更に欲してもいる……。

信じたいと言った翠蝶華は、正しかった。翠蝶華だけは、天武の中の仙人の悪に惑わされず、本来の人としての情を見抜いていた。

――これは天武の中の人間性と、無理矢理に与えられた華仙人の悪影響の相克だ。

結果は秦が趙を奪った時に分かる。人としての天武は欲には絶対に勝てない。

どのような残虐な図になるのか、もはや想像がつかない。神のみぞ知る、だ。

(人が天に願う気持ちが少し、分かった)

「花芯……」

 どうにもならなくなって、縋り、呟いた。天帝が、何という態だ。いいや、白龍公主も、貴人も知らないが、華仙人は人間よりも愛に枯渇する。

咸陽の何処にも、花芯は見当たらないまま秦を出るしかなかった。

 庚氏の陰の、捨てられた貴妃の行方など、いずれ淘汰される。

 花芯は通常の女と違う。なぜか龍の血を持つ。龍眼を持つ相手は見つけられない以上、花芯の居場所も千里眼では分からない。

 もしかすると、死期の近づいた猫の如く、ひっそりと……天武を慕っていた気高き娘だ。あり得る。自害を選ぶかも知れない。すべては庚氏の策略だ。

 ――庚氏は少しずつ、貴妃を消す。秘密を知った人間を殺し、天武を孤立させようとしている。その上、腹には恐るべき大罪を抱えている。

(孤独は辛い。もしも永遠にあの桃の華が傍にいてくれたら、私は快楽の中、生きて、すべてを見届ける。共に、系譜の元、生きよう――花芯)

 北極星が輝き、満月が姿を現す。天武の軍も間もなく咸陽を抜け、追いつく頃だ。

 香桜は白龍公主の消えた空を睨んでいたが、やがて雪山をゆっくりと降り始めた。

 しかし、香桜はすぐに唖然として、再び空中を飛び上がる羽目になった。

「莫迦な!」

 見渡す限りの、大陸を悠々と流るる渭水、泗水、淮河は、すべて白龍の手により凍っていた。当然、咸陽の関に進軍を果たした天武も、香桜の作戦を殲滅したのも同義の異変を受け取っていた。

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