趙の風雲児――咸陽出立

 空には重そうな雲が広がっている。咸陽を冷えた空気が駆け抜ける。天壇には兵士たちが無数に集まって、小さく震え上がっていた。

 極寒の季節が訪れた。露隠の葉月。もうじき雪が降る。

見上げていた天武に陸睦が並んだ。

「準備、整いましてございます」

「そうか。香桜は」

 黒に染めさせた鎧はまるで悪魔だ。

陸睦は変わらない煌めきの瞳で、天武を見つめた。

「軍師さまは、先導にて軍を率いるため、とっくに咸陽承后殿を出ておるではないですか。天武さま、ようやく、というときに、何を愁いておるのです?」

 天武は陸睦には答えず、背中を向けた。

 天武の瞳が淡く空を映している。

「戦車は何台、用意できた」

 陸睦はにっと笑って、両手を差し出した。何だか不安を煽ってくれる笑い方だ。

「十か」

「一千ですよ。――武器職人が新たなる兵器を産み出した……ご覧になりますか」

 戦車に大きな筒が乗っている。

「なんだ? 柱か?」

 天武は首を傾げた。大きな筒は斜めに置かれており、火縄が突き出ている。黒く鈍く光る巨体は不気味以外の何物でもない。

「香桜軍師の発案です。大砲というんです。山を切り崩し、河を暴れさせる。くく、凄いですよね。罪人を一度で死なせてしまうのです。俺も見ましたが、人が千切れて吹き飛んでゆきました」

 天武は眉を顰めた。陸睦に感じた違和感の理由をようやく見つける。

「陸睦、そなた、殺戮を愉しんでおるな」

 陸睦は驚いた風に、天武を見詰めている。天武はなぜか落胆に似た気持ちを噛み締めた。とうに忘れていた、女に触れた後で自分を斬りたくなった感情と同じ。ドス黒い感情が頭を擡げ始める。

「天武さまと同じですよ」

「私は、愉しんだ覚えなどない。まあいい。そのくらいの気概があれば、兵を」

 火縄に繋げた戦車が火を吹いた。 

大きな悲鳴が上がり、人が燃えてゆく。

眼を見開いた天武の前で、陸睦はこともなげに続ける。

「甘いんですよ。敵は微塵に還さねば、また幽霊のように蠢くだけだ。まあ、見てて下さいよ。天武さまは趙を滅ぼしたいのでしょう。傍にいれば分かりますから」

「何を殺した。そなた、今、何に向けて火を放った!」

 陸睦は何を言うのかと言いたげに、鋭い片眼を天武に向けた。吊り上がった目元は深みを増して、狐から鷹へと変貌している。

「足手まといになりそうな塵を、一掃しただけです。そのために莫迦兵を固めた。天武さま、お一人で、もう手を血に浸す必要はないのです。そうだろう! 秦の兵よ!」

 天武は声を上げた秦の兵を呆然と見回した。

 何かが違って来ている。それに、この武器は、何だ。何か、不吉な予感が絶えず、脳裏には警鐘が鳴り響いた。

「香桜が発案しただと? いったい、あやつは何を始めた」

 確かに趙への統一は最終目標だった。そのために、燕を潰し、斉を潰し、楚を踏み荒らし、魏・韓を跡形もなく滅ぼした。

〝天武さま、もうお一人で手を血に浸す必要はないのです〟

(違う。望んでいるのは、そんな言葉ではない。寧ろ、一人で手を汚すことなど厭わぬ)

天武は一瞬ちらっと過ぎった悲哀を叩き斬るように、剣を掴んだ。

背中を向けた兵士を斬り殺し、剣を高く雪空に掲げ、喉が裂けるほど咆吼する。

血飛沫を上げた前で、天武は頬に跳ねた血を拭った。

 ――何を迷う。私は、悪鬼だ。陸睦を、少年らを悪鬼に引きずり込んだ責任がある。

「戦場で背中を向けるは死と同じだ! 良いな! 以降、背を向ける者には私が手を下そう。趙は甘くはない! 今までの小国とは規模が違う。死にたい奴は背中を向けよ。遠慮なく斬り捨てる」

 こうまで言われて、背中を向ける莫迦もおらぬ。逃げるのは不可能だ。

 逃げたところで道は塞がれる。で、あれば進むしかないのだ。

(それが生きるという摂理。秦のために生きるという摂理だ)

 途端に、兵が騒々しくなった。

 このくらいで騒ぐなと怒鳴りつけようとした前で、兵士たちの波が二つに割れてゆく。

 段々に割れてゆく兵士の間を、ゆっくりと貴妃が歩んでいた。庚氏と、翠蝶華。兵士たちは二人のために、道を開けたのだった。

 庚氏は遥媛公主が好んでいた大型の紫綬羽衣のような肩掛けを羽織り、膨らんだ腹を撫でながら、翠蝶華に捕まって足を進めていた。

 翠蝶華は貴妃の髪型ではなく、妓女時と同じ、髪を高く縛り上げ、颯爽と肩に揺らしている。

「何をしに来た。貴妃をこのような場所に入れるな!」

 二人はゆっくりと近づき、斬られ倒れた兵士を見つけると、顔を見合わせ、同じような哀憐の表情を浮かべた。

「やはり、ですわ。庚氏さま」

「ええ。これでは、子供も安心して生まれませんわねえ、こうも人を殺されてはね」

「庚氏……翠蝶……何をしておる」

 陸睦が呆れながらも、剣を二人に向けた。

「貴妃さま方。このような場所にいらしてはなりません」

「あら、夫に、行ってらっしゃいの接吻も許さないと? ほほ、あなた、妬いてらして? 天武が大好きですものねえ? 白起の武将さん」

 陸睦は庚氏の言葉に頬を赤くして、口の中でもごもごとやった。

「天武、お願い。人を殺さないで」

 翠蝶華が涙を浮かべて頭を下げ、組み合わせた指を小さく震わせる。不愉快そうに翠蝶華を睨んだ天武に怯まず、翠蝶華は涙声で続けた。

 どうしようもなくなるではないか。

「なぜ、そなたが泣くのだ」

 泣く理由など、わかるはずもなかった。

「あんたは気付かないけど、庚氏さまの腹の子供を、悪鬼の子供にしないで。何が何でも、死なないで……戻って来るのよ」

 耳を疑った。狂った蜜夜で、翠蝶華は狂ったのだろうか。そうに決まっている。翠蝶華は、決して天武を愛さない女だ。愛される理由も、期待もないと言い切った。

 途端に庚氏の高笑いが響き、天武はむっと眉を吊り上げた。

 庚氏は袖で口元を押さえ、笑いを滲ませたままで、天武をまっすぐに見つめていた。庚氏は、三日月の如く眼を細め、策略を思い描き、流暢に喋るのだ。

「ほほ、貴妃に狼狽されてますの? 愉快ですわね。翠蝶華、行きましょう」

 ――食えない女だ。しかも、出立前に言う話か。横で陸睦が項垂れている。

「俺が妬いてるって……そうなのか」

 陸睦の士気まで奪った庚氏は、足をぴたりと止め背中を向け、麗しく声を響かせた。

「秦で、我が子と共に、お待ちしておりますわ。我が夫」

 出立前にえらい醜聞をしでかしてくれた。だが、逆に二人の貴妃の行動は天武の醒めた部分に、ようやく届いた。

 背中を向けた貴妃たちに向けて、天武は朗々と声を張り上げた。

「庚氏! 翠蝶華! そなたは野心のある男は嫌いではないとかつて言うたな! 必ずや、私は統一を成し遂げるぞ! 見ておれよ」

 庚氏と翠蝶華が同時に振り返り、また皇宮に向かって消えていく。

恐怖など、微塵も感じない。

 ――趙に向かうときの自分の心境は、常に愁いていた。

過去に向き合う事実こそが、天武にとって恐怖であったからだ。

孤独の揺り戻しの奇襲に怯えていた。

 天武は眼を閉じた。心には漣ひとつ、存在しない。――今は、こんなにも穏やかだ。

(待っているという人がおる。逢いたい人もおる。嗚呼遥媛、見ているか? ここは地獄だが、地獄ではない)

空を見上げると、今にも泣き出しそうな雪雲が、空を白く霞ませている。冬の風は天壇を駆け抜け、皇宮には雪がちらつき始めた。

 兵たちは、ただ、天武の声を待っている。

 眼を開くと、愛おしい秦が視界に入った。

 朱鷺に跨がり、天武は空を睨む。もうすぐ夜。間もなく、天帝の星、憎き天極星が鮮やかに冬空の中輝く。

「未来は拓ける。臆するな! 目指すは大陸北最奥にして、巨大軍事国、嬴(えい)姓(せい)趙(ちょう)氏(し)ぞ!」

 秦軍の総勢百万の大軍が降雪の中、咸陽を進み始めた――。

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