趙の風雲児――華の貴妃

        

 ささくれだっている回廊は、男の乱入を防ぐとともに、暗殺防止でもある。天武は迷路のような皇宮への天道を、ひたすら急いでいた。

 ――母体ともに危険だと?

 慣老の言葉は、天武の脳裏に張り付いた。回廊を抜けたところで、悔しさが押し寄せる。

「統一まで、あと少しなのに、どこまで邪魔をする、庚氏」

 種を奪い、勝手にできた子供だが、どこか吹っ切れない。それが、気持ちが悪いのだ。

 残酷になりきれなければ、死が待つのみ。

「嫌だ、死は……」

 死は嫌だ。嫌だ、死にたくはない。壁に爪を立てた。唇を噛み締めすぎて、じんじんと痛む。

 自分が消える後に待ち受ける闇の口を想像し、天武は身を震わせた。

私は、仙人になるのだ。仙人になって永遠の命を得るのだ。

 矢継ぎ早に決意を固め、顔を上げたところで、思わず視線が固まった。

 赤い貴妃服に、金の釵。手には剣ではなく、団扇を持っている。一層肌を白くした翠蝶華は困惑していた。

「なぜ、皇宮におる。道は教えて……」

 淑妃の格好の翠蝶華はなぜか頬を染め、天武も同時に無言になった。

 一晩抱き潰した記憶が、二人を同時に襲う。今にして思えば、なぜにあそこまで燃え上がったのか。薬に浮かされた狂人のようでもあった。いいや、狂っておったのだ。最後には、動きを封じてまで欲した。何度も抽送して、それでも体力の限界など感じなかった。

記憶が途切れるほど、昂ぶり、翠蝶華も同調するかのように……。

(何を思い出しておる! 莫迦者!)

 叱咤し眼をきつく閉じ、自分の腕を抓った。先に口火を切ったのは、翠蝶華だった。

「宮殿が退屈なので、お散歩に出たら、皇宮に辿り着いてしまったのですわ。道なんか知らないわ。な、何となく、天武ならこう歩くと、ぼんやりとしてましたのよ」

「貴妃の掟を知らぬのか。うかうか出て来て、兵に犯されても知らぬぞ」

「ちゃあんと、剣舞用の剣は持ち歩いていますわよ。暴漢など、ぶすりですわ」

 相変わらず元気な表情に、ほっと安堵を洩らす。と同時に、つんとした唇に僅かばかり欲情した。

引き寄せて口づけを与えても、翠蝶華は前のように手を上げたりはしない。

 ――大した覚悟だ。ついつい意地悪に強く、舌を絡めてやった。

 ひくんと指先が天武の肩の上で震えている。少し唇を開いたままで、解放した。銀糸が二人を繋ぎ、ゆっくりと伸びて消えゆく。

潤んだ瞳になった翠蝶華の頭を撫でてやると、僅かに瞳が震えた気がした。

「回廊には罠も多い。ウロウロ徘徊せぬことだ。そなたはもはや、妓女ではない」

「そうそう、先程、華の貴妃が外に出てゆきましたわ。ふふ、ご多忙ね。何でも、庚氏さまを殺すとかなんとか。ふふふ、まぁ、大変、ね」

 爪先で天武の爪先を踏みつけ、痛がらせて、ふんと顔を背け、翠蝶華は背筋を伸ばして廊下に消えた。

                *

(全く、あやつの鞜はなんだ。凶器か)

 じんじんする爪先に嫌気が差したところで、今度は香桜の姿を見つけた。いつも悠々と構えている姿は、どこか気に入らない。

「そなたは覗いておらぬで、軍師の仕事を全うせぬか! 斉の水攻めの件は、どうなった」

「俺の顔を見るなり、怒鳴るの、やめない?」

 香桜にへらりと言い返され、天武は俯いた。

「時に、香桜。以前、そなた以前、華仙界やらの話をしたな……」

 眉が下がるのを見て、そうだよな、と自嘲した。

殷の時代の書物の夢物語に縋るとは。心が弱っている証拠だ。

「趙への進軍を早急に進めよ。準備ができ次第、大軍を持って叩く。秦を護る部隊も必要だ。軍を五つに分けよ。一つは長城へ、一つは秦の後宮の警備、残りを持って、趙を叩くとしよう」

 庚氏の苦悶する顔が頭を過ぎった。

 ――薬草など、探している暇はない。だが、本当に、斉に仙人の棲む霊峰があるとしたら?

(そうだ、花芯、あの娘を探さねば。永遠への兆しは、花芯が持っているやも知れぬ)

 しかし、その夜から、花芯は行方知れずになった。口さがない人々は、傷心で身投げでもしたのだろうと噂を広めた。

「花芯を探せ」

 追捕の人員を割こうとしたが、宰相たちは一斉に反対した。李逵は相変わらず悪魔の顔で、夜の公務の段取りを進めてくる。

「天武さま……さあ、私を命を賭して、再び愛しなさい!」

 皇宮で、庚氏が天武の頬を撫でた時、命を削る腹もまた、蠢いていた。

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