趙の風雲児――天帝の名は

                 *

 庚氏の宮を出た突き当たりにある庭園。宮殿の一角を退け、蓮の池を作った。四阿で天武と慣老は向かい合っていた。慣老が珍しく天武を引き留めたのだった。

「話とは、なんだ、爺よ。それにしても見事な蓮だ。象鼻杯が楽しめるな」

 蓮を茎ごと抜き、寝転がって銜えさせ、茎に穴を空けて酒を流し込むと、蓮の移り香が楽しめる、殷の時代の雅な飲み方だ。

(こういう趣向は、庚氏が好きそうだな)と心を遊ばせた後で、天武はよぼついた爺を見やった。

 久々に見た爺慣老の顔は、萎んだ蜜柑。小さく見えた。

「もしや、臣下に診察に向かわせた話か? 庚氏は公表はしておらぬが、私の、秦の王の正妃。おまえが看る理由はある」

「そうではありませぬ。庚氏さまの容態のお話でございます故。天武さま、驚きにならぬよう」

「何だ、改まって。子は順調に育っておる。まあ、少し庚氏の顔色が良くないが。母子ともに栄養をつけさせておるからな。高級食材をたんと食わせるように……」

「元々、庚氏さまは華奢でございます。庚氏さまのお体は、出産には耐えられぬかも知れません」

「莫迦な!」

 思わず怒鳴って、「あ……」と口元を押さえた。

「庚氏さまは煩労してございます。それに、先日の水銀の影響も、少なからずお有りでしょう。何より、庚氏さまのお子が、些か元気過ぎる。逆子といいましてな。通常は子供は頭を下に丸まっておるものが、上に向いておるのですわ」

「逆子だと……なんと不吉な」

 秦では逆の現象を忌み嫌う。天武は続けた。

「原因は、なにか。対策は講じておるのでは……」

 あたふたした口調を抑え隠した天武に、慣老は「いいですかな」と子供をあやす如く、口調を遅めた。

「庚氏さまは元々、脈が薄い女性ですな。血脈に、母は栄養を混ぜ、子に届ける。しかし庚氏さまの場合は血が薄いため、血流に載せて栄養を運べない。庚氏さまもまた、命がけで毎日お子を抱えておるのですぞ!」

 ――つまりは、庚氏が出産と同時に命を落とす可能性がある。

 言葉を失った天武に、慣老が声を潜めた。

「趙と斉の間には、仙人が棲むという山がございますのは、存じておられますか」

「いいや。知らぬ。この後に及んで、戯れ言……」

 花芯の声が脳裏に響いた。

〝天武さま、仙人を、お花を、嫌わないで下さいましね……〟

(そうだ、花芯。あの娘なら、何かを知っているのでは?)

「その山には、仙薬が溢れていると申す。おそらく、庚氏さまの血の道を正す薬草もあるでしょう。遣いを放ちなされ。――幻の薬草、蓬莱の薬を」

 天武は返答せず、押し黙っていた。

 ――これは、なんの天罰だ。

「い、今さら、虐げてきた仙人の力に縋れと言うか。莫迦な……そもそも、蓬莱とやらが確かに趙にあるなど、何を以て確証とした? 邯鄲育ちの私を見縊るか」

「しかし! 庚氏さまは、この間にも、お命が削られておるのですぞ! 一刻も早く、薬草を。ギザギザの葉で、赤い実がなっておる。しかし、朝露に浴びると、真珠のように実が光る。花芯妃さまに聞くが宜しいでしょう」

 ――やはり。

(花芯の札を引き当て、花芯を問い質し、直ぐさま捜索に当たらねば)

 しかし、趙の近くとは、何の因果であろうか。

(邯鄲には、今も母がおるのか)

 天武は秦に来ても、趙の母親の動向だけは掴んでいた。趙の王と共に生きている。子を捨て、母は……っ。趙を滅ぼし、母を壊す。

近くに庚氏と子を救う手立てがあるとは、これは誰の仕向けた地獄だ……。

          *

柱の陰から、香桜は様を窺っていた。見ていると、天武は最後に慣老に厳しい口調で一声、「庚氏の容態を看よ」としつこく念を押し、皇宮に足を向けて行った。

天武の気配がすっかり消えたのを確認して、姿を現すと、慣老が疲れた表情で香桜を縋り眺めて来た。

「つまらない芝居をさせたね、爺さん」

 慣老はさすが年の功を言うか、よく物事を見ている。秦の古兵が虐殺された折、何かに気付いていた。

「天武さまは、幼少時から、気に入らないものを許さない少年でしたぞ」

「今更かい?」

 それ以上は貝だ。押し黙った。

(こういう男を、忠臣と言うのだがな。主の罪は口にせぬ。若いときは、さぞかしいい男だったろう)

 慣老はぺこりと頭を下げると、よぼよぼと歩いて行った。

 ――先は短いようだな。

 天帝は自ずと人の寿命が分かる。証拠に、系譜の慣老の文字は消えかかっていた。

 名を持たない、ただの〝素敵な老人〟を示す慣老の名。真名を与えられないまま、ずっと横暴な天武を見守ってきた者は、他にもいたはず。

 天武は、消してはいけない者どもを消してゆく。

「急がなければならぬようだ」

 天武は華仙人の存在に気付き始めている。庚氏だ。口止めをしたつもりが天武の前では遺憾なく女を発揮するとは計算違いだった。それに、姫傑と天武は、もうじき相見(あいまみ)える。

 もう、猶予は一切ない。どこから、崩れるか分からぬ不安定な楼閣には住めない。

「天帝の名を騙っただけでも、冥府へ落ちるは充分だ。愁天武」

 ……聞こえているか?

「天帝を怒らせるなよ」

 香桜は小さく呟き、脳裏に次なる作戦を思い描いた。

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