趙の風雲児――孟黎と姫傑

 晩秋。趙の水流に紅葉が散りゆく季節だ。

 秋は正直、さほど好きではない。姫傑はどちらかというと、春の温かさいっぱいの気候が好きだ。

(おお、寒ィ)

 少し肌寒いこんな日は、女体にしがみつくに限る――と、捕まえていた女体がもぞりと逃げたのを、ぼんやりとした双眸で見やる。

(女神がいるじゃねえか)と思ったら、女体を陽光に晒した西蘭だと、半覚醒の惚けた脳が伝えてきた。女神が眼の前で憤慨している。


「おら、時間だよ、姫傑!」

「うおっ!」


 趙の歴史は古く、歴代の王が多いとはいえ、貴妃に裸で蹴り起こされる王など、俺くらいだ。視界が、ぐるんと回転し、ごん! と頭をぶつける音で、確実に眼が覚めた。

 趙の宮殿は、白龍の影響か、所々が凍っているのだ。つまり、落ちれば、冷たい上に、かなり痛い上、まるで氷に放り出される感覚だった。

 西蘭は、曲げた足の指で、姫傑の逸物を悪戯して、ご機嫌そうに身支度を始めた。


「西蘭! 王のタマを蹴っ飛ばす貴妃なんて、おまえくらいだ!」


 牀榻の上で髪を梳かしている西蘭を睨んだが、西蘭は高級な金の釵を挿しながら、悪態をつく。

「朝っぱらから、おっ勃ててんじゃないよ、莫迦姫傑。文句は言わせないよ。もうすぐ、兄者が来る。頼み込むんだろ、兵力を貸せって」

(そうだった……!)

 どんなに没頭しようが、王を奮い立たせる義務は貴妃たるものであれば当然と、西蘭は言う。更に、王との性交に没頭する貴妃は貴妃ではなく、娼婦だとまで言い切った過去がある。

 先程までアンアン言いつつ、瞬間キリリと口調を変える。

(胆の座った女だよ。まあ、そんくらいのが、付き合い甲斐があるってもんだ)

 褒姫を喪った際、身投げしそうな程に落ちこんだが、西蘭は話を黙って聞いてくれた。

 先日も、皇宮へ一緒に従いてきた。勿論、そんな西蘭の兄であるからして、孟黎もなかなか筋が通っている男だ。

 趙の軍を仕切る将軍、申孟黎。乳兄弟でありながら、いつしか疎遠になっていた。

 姫傑はがりがりと髪を掻き上げ、しぶしぶ服を手に取った。

 姫傑は民族衣装の長袍を愛用している。王になっても、服装は変えていない。一級品の直衣長袍に袖を通し、ザンバラになりがちな髪は、麻紐で縛り上げた。

 立ち上がると、大きく壁に掛けられた厚手の綿布を引き裂く如く、開けた。

 朝陽が射し込み、光の面紗が降り注ぐ、皇宮の中心。足を踏み入れれば王の表情になれる気がする。腹からの声を響かせた。

「待たせたな」

 大股で歩いて、壇上に向かう。

 趙の皇宮は大国の殷の名残が見て取れる高級感に溢れていた。

 緞帳に掛かった面紗には大きな龍が描かれ、秦の龍が金龍なのに対し、趙の龍は翡翠色をしていた。

 長く伸びた王座の背には、古代文字が彫られている。歴代の王のみが読める内容だ。父を殺したせいで伝統も終わったが、然程の問題ではない。

 立派な象嵌の填め込まれた王座の前に、人々が早くも集まっている。最前列の宰相たちがうやうやしく頭を下げてきたが、礼節は苦手だ。 

 ――父を始めとする皇族たちが死に絶えた時、一斉に姫傑を支持した者どもだ。

 どすんと王座に腰を掛け、大股を開いて肘をついた。

「早く持ってこい。今日の書簡。斉の状態は」

「酷いもんですよ。残った女は、ほぼ……」

「そうか」


 宰相に政治を任せ、姫傑は、こつこつと秦への準備を進める一方で、斉の花街は救えず、遊牧民族と海匈奴の犠牲となった事件は、まだ新しい。


 花街の女たちの大半は趙に亡命させ、花街自体を転地させたが、間に合わず、匈奴の餌食になった女も多数いる。褒姫が辿ったかもしれない女の最悪の末路。男たちに酷使され、局部破壊された肉体がそこかしこに倒れている現場は、見ていられなかった。


 姫傑は、まず、人員を投入し、例の斉と趙の洞窟を埋めよと指示をしている。横穴を穿って斉を沈める計画は、順調に進んでいた。

 海に還そうと決めたのは、それほどに斉の海が美しいと思い出したからだ。美しかった街は、海の一部となり、斉は秦の手には落ちずに自然に還る。

 斉梁諱と褒姫の離宮も、おそらく沈む。あの銀の美しい海に還るのだ。


 座ったまま、無言の姫傑に汁を浸した煉り物と、麦を焚きしめた飯を口に運ぶのは西蘭の役目だ。姫傑は凹むと、食事を摂らない性質だった。

 疑問もなく、膝に乗せた西蘭の腰を引き寄せて、口を開け、書簡に見入ったが、漢字が多い。すぐに放り投げた書簡を西蘭が拾った。


「あたしが読むよ」


「ああ、そうしてくれ。何で朝っから、こんな字だらけの書簡を見なきゃならねえんだ。 見ただけで、頭痛がしてきた」


 姫傑は長い腕をひらひらと振って見せる前で、「全く……」と西蘭の呆れ返った声。


「だってさ。お莫迦な肉獣王には口頭で伝えてくれるかい?」


(ぬかせ! 人を獣かなんかのように言いやがって!) 


 跪いた間諜の男は、秦の長城と咸陽を探らせていた男だ。長城の崩壊で、親友と想い人を亡くしてからは、姫傑は監視するかの如く、秦の情報を欲しがった。

 男がおもむろに口を開いた。棺桶に入ったほうが似合いの爺だ。少し臭う。


「秦の兵により、匈奴三万が姿を消しました」

「アァ? もう一度はっきり言って見ろ」


 報告を口頭で受け取るなり、姫傑は無骨に聞き返した。


「楚の間に巣くってた敵が一網打尽にされたァ? 莫迦ぁ言え。ありゃ、趙と楚が連合して、ようやく追い払った連中だぞ。浮塵子みてえに湧いて出て来やがるんだ」


「おそらく〝白起〟の仕業でしょう」


「――聞いた話だな。……ああ、秦の……」


 姫傑は政治には確かに疎い。未だに趙の宰相の名を覚えていない。


 しかし、神はちゃんと取り分を与えるものらしく、姫傑の脳は、武道と戦いに関しては、天才的に動く。従って、過去から遡る歴代の武将の名は、一度だけ聞けば覚えてゆけた。


「親父が言ってた。ウチの兵士は、ほとんど殺されたって。でも、そいつは二百年前の話だろ。亡霊がウヨウヨしてんのか?」

「そうじゃない。姫傑。相変わらず頭がカラか」


 話の最中に、民衆が二つに割れ、低い声音と同時に、ゆっくりと愚鈍そうな男が大剣を手に、現れた。


 髪は姫傑とは対照的に短く刈り上げ、趙の流行の耳飾を揺らしている。


「秦の武将は、継承しやがるのさ」


 額には二重に充て布を巻き、無骨極まれりな男の痩けた頬に、ギラギラと常に殺気を放つ瞳は、威風堂々と敵を蹴散らす攻撃的な獣の目だ。

 憎々しげに睨まれて、もう秦はおろか、白起云々、どうでもよくなった。


(来やがったな! 孟黎!)


 足元に投げ出した棍を手に、姫傑は椅子から飛び降りた。すぐさま兵士も剣を抜いた。


「俺が勝てたら、秦への攻撃に協力しやがれ! 孟黎!」


 男は「うるせえなあ」と低音で呟くと、剣を抜いた。へっと余裕の笑みで棍を振り回した。

 乳兄弟から、敵へ。孟黎と姫傑は幾度となく、顔を合わせれば刃を交える。

 孟黎は孟黎で、愛おしい妹をだらしない姫傑の傍に置かせるのが嫌らしい。そもそもは、西蘭と姫傑が、周りも憚らずに盛り上がった行為がいけないのだが――。


 廊下で同衾した瞬間を見られた日には、本気で殺されるかと思ったもんだ。


「いい加減にしな! 双方、剣を納めよ!」


 西蘭のドスのある大声が響いて、男たちは動きを止めた。

 急に動きを止めたせいで、足に、棍が当たり、姫傑は蹲った。

 もの凄く痛い。ともかく痛い。果てしなく痛い。


 飛び上がった蝗虫になった姫傑を無視し、西蘭と孟黎は向かい合う。戦鬼から、孟黎は兄の顔に戻った。


「西蘭。息災であったか。莫迦王の相手も、疲れるだろう」


「兄者、久しくございます。西蘭は王の第一貴妃として、立派にお役目を果たしてございます。いずれは、正妃にもなりましょう。いい加減、兄者もお役目を果たして欲しいものですのう」


「何の話か、わからんな」


 はぐらかそうとした孟黎の腕を力一杯ぎゅうっと掴んでにっこり笑った西蘭は、更に続けた。


「兄者、いい加減に協力せねば、この西蘭、廊下と言わず、現在、眼の前で姫傑に激しく抱かれて見せますぞ……?」


 妹を溺愛している孟黎にとって、これほどの脅しもない。

 聞いてられんと姫傑は、ぼやき始める。


「おい、西蘭。俺は露出は苦手だよ」

「趙王に平伏(ひれふ)せ!」とばかりに、孟黎の部下が慌てて平身低頭になる中で、孟黎は憮然と姫傑を見下ろしている。孟黎は背が高い剛の者だ。


「姫傑。いつ秦に攻め込むつもりだ」


「まーだ、考えてもいねえよ。何しろ、妹を奪われた莫迦な兄が、兵を出さんもんで」


「ほう、言ってくれる。莫迦王が」


 孟黎は瞳に一瞬めらっと怒りを滾らせ、姫傑は挑発を繰り返す。二人は忽ち火花を散らし合った。

 妹の西蘭との肉体の相性は、最高なのだがどうやら、孟黎とは合わない。

(だが、それは俺も同じだ! てめえのスカした態度は大嫌いだぜ! 孟黎!)

 スカした態度の言葉で、斉梁諱を思い出した。梁諱も随分とスカした男だった。

 今頃、褒姫と一緒に悠かなる空から見ているか。

 ――おまえ、最期は誰を想って、逝ったんだ……?

 二人を思えば、忽ち目頭が熱くなる。そうだ。小競り合いをしている暇はない。


(梁諱の切り拓いた道は、俺が護らなきゃなんねえよな……)


 孟黎が這いつくばった姫傑に向け、苛立ち紛れに吐き捨てる。


「なんの真似だ」

「頼む、俺が気に入らないのは分かる! だが、おまえの力が欲しい。兵を出してくれ」


 膝をつき、両手を添えて、姫傑は孟黎の足元で礼をして見せた。最悪、爪先を舐める覚悟で、頭をすりつけた。


「王のくせに、何やってるんだい!」


(屈辱なんか、いくらでも堪えてやる。褒姫を犯して、後悔は飽きるほどしてるさ!)


「るっせえ、西蘭! 俺にゃ、大切なもんがあった。でも、それは秦の王が踏みにじり、奪い去った。相応しいと思うか? 俺は、褒姫の哀しみにつけ込んだ。梁諱の苦しみを理解できなかった! 孟黎、おまえに分かるかあっ」


 ビリビリと空気が震動した。ふわりと女の腕の柔らかさが姫傑を覆う。


 褒姫も同じく抱き締めてくれたのを、不意に思い出した。やはり西蘭と褒姫は重なる。

「だから、あんたを受け入れちまうんだよな」と、西蘭の声が優しく頭上で響き、頭に寄りかかる重さを感じる。

「莫迦な王だよ。ほっとけない」

 宰相たちが眉を顰めても、姫傑には関係がない。ふと、陰が過ぎった。孟黎が背中を向ける気配がして、顔を上げた。

(やはり、駄目か)と落胆した前で、孟黎の大きな背中が動いた。

 孟黎は剣を抜いて、構えた。後姿しか見えないので、確証はないが、剣先がちらちらと見える。

 きゅっと爪先が音を立て、孟黎は横向きになった。鍛え抜かれた戦士の頬の輪郭は鋭く、眼光は研ぎ澄まされている。

「姫傑。秦に過去最強の称号の武将がいる。叩き潰してやりてぇから、兵がどのくらいいるのか、戦車は何台ぐらい必要かを、軍務に相談しろ。兵糧もだ。秦はいずれ、やって来る。ちまちました奸計なんて、頭がカラのおまえには無理だ。叩き潰すのみよ!」


「孟黎、それでは……」

「勘違いすんなよ。俺はおまえが嫌いだよ。妹を傍に置きたくはない」


 姫傑の頬に、怒濤の涙が溢れ出した。西蘭が袖で拭って、肩を叩く。


「ほんと、感情の操作が下手な男だね。兄者、分かっててやるんだから、タチ悪い」


 ふん、と孟黎が勝ち誇り笑った声が涙の向こうから聞こえた。


「情けない王ほど、強い将や、逞しい貴妃が生まれるものだ。覚えておけ、姫傑よ」

 捨て台詞を吐いて、孟黎は去って行き、

「ちょっと待ちなよ! 最後の台詞は戴けないね! 女に逞しいとは、なんだよ」

 と西蘭も後を追いかけていった。

 いよいよ、近づいてきた。俺か、おまえか、どっちが生き残るか勝負だ、ハナタレ天武。いや、秦王政よ。

 姫傑は一瞬ふっと眼を閉じ、続いて、ゆっくりと片眼ずつ開けてみた。

 右目の世界と左目の世界は、同じようで違う。両眼の世界は、どこまでも眩しい。だから両眼で見据えたくなる。

 美しい世界は、いつでも眼の前に転がっている。


「大決戦、やらかすぜ! まあ、どこまでやれるか分からんが、秦を迎え討つ! 心配すんな。趙には一歩も入れねえ。歴史あり趙の太子姫傑が、すべての指示をする。ど派手に行こうぜ!」


 入口で言い合いをしていた兄妹が、悪態をつくのを止めた。


「祭りじゃないんだってのに」


 西蘭が呆れて呟く。いとおしさの混じった声音に、孟黎もついつい笑みを零した。

「やれやれ。俺は、お祭り野郎に命を捧げる気にはなんねえな。男は自分の命に命を捧げるもんだ。西蘭、そういう理由で、俺はこの祭りにゃ乗れねえ。でもまあ、秦の武将にゃ、興味がある」


「それでいいよ。姫傑も言うさ。〝俺に傅く孟黎なんぞ、気味わりぃぜ〟ってさ」

 趙の秋風は、氷混じりの、冬の匂いを運んでいた。


 凍り付いたかつての趙の皇宮は、太陽の光を照り返し、残虐な時間を止めたまま、静かに佇んでいた。


 秋風は、ぼんやりと空を見上げていた天武の母、趙姫の離宮を駆け抜け、氷の結晶を届ける。趙姫は誰かに良く似た垂れ目で、一つの名前を呟いたが、風が掻き消した――。

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