趙の風雲児――人の狂気に終わりはない
翠蝶華は物事をずばずば指摘するわりには、実は赤裸々な言葉に弱い。それは、長年で見抜いていた。少し被虐好きな性質も見抜いている。
案の定、言葉を失って、呆然と頬を押さえたまま、動かなくなった。顎を抓んで、上向かせる。と、再度、言葉を叩き込んだ。
「私の貴妃になったという決意は、私の子を産む覚悟がある証拠だな」
翠蝶華は唇を噛んで、俯いた。ぽたぽたと手に落ちた涙に気付く。さすがに言葉を止めた。
「劉剥とやらに顔向けできぬ事態になる。漢は、もはや存在せぬ。華陰も。そなたが人身御供になる理由は、ないのだが?」
「そんな理由ではありませんわ!」
「では、理由はなんだ。秦の王命令だ、告げよ」
「んまあ! 人の心まで命令なさるの? やっぱり、最低だわ」
早速、毒矢が飛んできた。天武は言葉に詰まりながらも、顔を近づけ、勝ち気な瞳を覗き込んだ。
「転がり込もうとしたそなたもな。言い合いをするために来たのではなかろう」
翠蝶華は拳を震わせて背中を向けた。発された気弱な声に、驚きを隠せなくなった。
「なんで……楚で、泣いたりするのよ……」
思わず置き晒した剣を手に、鞘ごと、翠蝶華の首を持ち上げた。怯えはしたものの、吊り目は変わらずに勝負を挑んできた。
「他言したか?」
剣の向こうから、小さなせせら笑いが届く。
「するわけないわ。王が泣いていたなんて、みっともない話」
しっかり仕返しされ、げっそりとなった天武に、翠蝶華はにじり寄ってきた。
「見なければ良かった。そうすれば、あたしは、あんたを許さずにいられた。だけど、気付いたの。あんたは、劉剥を見逃したし、楚でも攻撃を止めた。あたし、天武を叩けなくなっちゃったじゃないの」
気が緩んだのか、気取った口調を止めた町娘の喋り方の翠蝶華は可愛かった。が、絆される理由はないと鋭い指摘をしてやった。
「下らぬ話を聞きたいがために、誰の手引きで淑妃の真似事をした」
「遥媛公主さまを慕っていた商人よ。宮伎の人脈、甘く見ないで。なによ、喜ぶと思ったから、精一杯こうして正装したのに、そっけないのね。もう知らない」
ぷい、と翠蝶華は顔を背け、頬を膨らませて面紗に潜り込んだ。
思いのほか直毛だった黒髪は、まるで流れるかの如く、面紗の上に毀れて拡がっている。翠蝶華の形をした面紗から、足がはみ出ている。
そっと手を置くと、モゾリと動いて面紗に隠れた。
茶番の夜は、花芯以来だ。面紗に指を絡ませ、引っ張ると、更に翠蝶華は小さく隠れようとする。
「では、良いのだな。逃げようが、泣こうが、私は牀榻でも手は緩めぬ。逃げるなら、今のうちだ。ああ、中には出さぬから、安心しろ。面倒事はごめんだからな」
片足が思い切り飛び出て、天武の前で暴れ、またすぐに引っ込んだ。天武の手が面紗を捲り、太腿に這う。勢いよく面紗を引き上げた。
瞬く間に、翠蝶華の局部が露わになった。麗しき貝が、綺麗な弧を描いて濡れそぼっている。思わず、にやりと笑いを漏らした。
「素晴らしい景観だ」
意地悪な声に気付いた翠蝶華の手が慌てて面紗を引き下ろすが、天武のほうが早い。
搔き回された自身に気付き、翠蝶華が甘く啼いた。
無意識に乾いている唇を舐めると、天武は更に手を伸ばす。
背中から覆い被さって、先端でもどかしくも硬化しつつある箇所を突き始めた。
つまらぬ小技だが、効果はあった。翠蝶華の立てた足に滴が伝わってゆく反応が、視界に入る。
「確かめてやろう。そなたの忍耐力と私では、どちらが上か。まあ、この潤いようでは先は見えているか」
「莫迦っ、意地悪、鬼っ」
「ああ、好きなだけ言え。呂……」
天武は抱きすくめた翠蝶華の耳元で、翠蝶華の本当の名を低く囁いた。
見る見る間に、翠蝶華の瞳は天武に向いた。天武の微笑みに、頑なだった表情は一変して緩んでゆく。いつしか、向かい合いの格好に戻っていた。
不信そうではあるが、どこか信じ切ったような声音が、おずおずと言葉を押し出した。
「覚えていたの? 名前を呼んでって言ったのも? 私の名前も?」
「当然だ。忘れたくとも、忘れられぬ。忘れて良いものではないだろう」
天武は翠蝶華を抱き締めた。抱き締めると同時に、内に入り込ませた。
翠蝶華の「ああっ」の喘ぎの声音は普段よりもずっと高く、愛らしいと知った。
楚の時と違い、何も着けてはいない潤いすぎた蜜壺は、抵抗もなく、するんと天武を呑み込んだ。
細い街道を己で切り拓きながら、指を絡めて、唇を合わせた。
(楚で、思った。口唇を吸い合えば、もはや止まらぬと)
やがて、天武は己の直感が正しかったと確証した。
挿入するなり、翠蝶華の体内はまるで甘え、蠢き出した。合わせてやると、一つになろうと、さらに脈打つ。
躊躇に似た、駆け抜ける感情の正体は未だに分からず、ただ、何度も抱いて貫いた。
翠蝶華は何度でも応えようと腰を浮かして、唇を噛みしめては慣れない動きを覚えようとする。
時には反発し、挑発する女体を押し開き、征服する愉悦すら在った。
翠蝶華の内に押し入ったままで目覚め、また包まれて、自身の逞しさを見せつけた。同時に刹那の眠りに落ち、脈動とうねりの波で動き出して、陽の気を充たした。
何の手落ちか、宦官の訪れはなかった。二本の柱に渡された絹の上に足を掛けさせて、揺すり続ける内に、体内は柔らかく、吸い込む仕草に変わって行った。
そうして夜を越え、朝を迎えた。貪り尽くした頃には、翠蝶華の頭は、天武の腰の横にあった。頭を撫でると、翠蝶華は顔を上げた。
綺麗な唇の紅は、すっかり落ちきっている。頬に撥ねたままの愛液を指で拭ったりしている内に、気分がほぐれ、とうとう本音が口を次いで出た。
「劉剥にも、同じくしたのか」
翠蝶華は返答を拒んだ。
天武は天井を見上げ、龍の姿を眼に映しながら、ぽつりと呟いた。
「私が最初で有りたかった」
懸命になっていた翠蝶華が更に吸引を深くする。種を何としても奪おうと、喉を窄めた。極限まで秦の王を追い詰める気満々で挑んだに違いない。
武闘であった。何度も波を越え、本能を抑え、堪える度に、報復の刺激が与えられる。根元をきつく指で押さえ、一滴も出ない工夫をした。秦に伝わる避妊と房中術だ。そうそう破れるはずもない。
翠蝶華の顔がドロドロに溶けた。涙を流して、訴えた。
「なんでよ。なんで拒絶するの? いいじゃない! お互い愛し合っても」
「劉剥がいる限り、おまえは本気で抱かれぬよ」
翠蝶華は言葉を失ったようだった。
「男の嫉妬など。女のおまえには理解などできはせぬ」
すれ違いだけが横たわる。それほどに翠蝶華との行為は激しく、悲しいものであった。
翠蝶華は呼吸を繰り返し、落ち着くと、天武に寄りかかって、本音を口にした。
「趙への進軍を、取りやめて。また、殺すつもりなの?」
翠蝶華の言葉は、受け止めずに流すしかない。人が死のうが、志は変わらない。
「統一は絶対に必要で、誰かが悪鬼にならねば、時代は動かぬ。幸せは来ぬのだ」
翠蝶華は涙目で縋った。
「あんたの幸せは、どこにあるのよ!」
天武は視線を逸らさず、翠蝶華の瞳を覗いた。懲りずに翠蝶華は繰り返した。
「ねえ! あんたの幸せは、どこに飛ばしてしまうのよ!」
天武は唇を再び曲げた。
「ふん、楚の子供の前で、私は笑っていたんだ。子供の運命は、決まっていた。子供は、大人に遊ばれるものなのだ」
「違う! ねえ、なんで悪鬼になろうとするの? 天武」
「良い夜だった。貴妃の務めを、よりよく果たせ。まあ、札次第だからな。寂しい思いをするが嫌なら、李逵に文句でも言っておけ。あやつが、諸悪の根源だ」
翠蝶華は元のつんけんとした態度に戻っていた。天武の肩を揺すり、喚く。
「なによ。寂さは寧ろ恋人だわ。趙も無血開城を! 私をまた好きにしていいから! 良かったでしょ? 頑張ったの! あんた私を好きでしょ? 頑張ったのよ! 嬉しいでしょ? やっと結ばれたって、喜んでよ……っ」
――何という、可愛らしい誘惑だ。思わず頬が綻ぶ悲鳴だった。
(だが、分からぬのだよ。こういう時に何を言えば良いか)
「私は桃を吐き付けられてより、そなたを服従させたかった。思えば、出逢いからして、私はそなたに勝ちたいとしか考えておらぬ。ようやく結ばれたなどと、陳腐すぎて、口にする気も失せるわ」
「やっぱり、悪魔だわ」
翠蝶華は静かになった寝室を見回し、くしゃくしゃになった面紗を抱えて俯いていた。が、また口調を貴妃モドキに戻し、寂しそうに呟いた。
「不思議なものですわね。貴方が大嫌いなのに、それなのに、ちゃんと愛してくれている気がする。でも、頭に来るわね。誰かを死なせるなら、まず、殺されてしまえばいいわ」
ようやく調子を取り戻したと、天武は翠蝶華を見つめた。
不思議な話だが、悪態をついているほうがずっと、翠蝶華らしい気がする。
「私は、誰にも殺されぬよ。王は、永遠に生きるために在る」
――天帝と呼ぶものが仮に存在するならば、この決意を指すのではないか。
遠くで笛の音が、緩やかに響いては消えた。香桜かと思ったが、問い詰めるのは無理そうだ。
(もしかすると、宦官が来なかったのは……)と、ぼんやりと考える。
それでも、翠蝶華を思う存分、愛せた。多分、これほどの幸運は、もはや来ない。
――大丈夫だ。私は崩れない。後は、悪鬼の道を行くのみ。
「趙を百二十万の軍隊で攻める。そなたの意見は聞かぬ。気に入らなければ、後宮を出よ」
翠蝶華は靜かに首を振り、告げた。
「私は、傍におりますわ……! あなたの狂気を鎮めるまで!」
純粋な瞳は、いくら性交を重ねても曇らない。あまつさえ、泣き叫ぶような体勢を取らせても、翠蝶華の気高さは喪われなかった。
(狂気を鎮める、か…)
――人の狂気に終わりはない。私は、既に永遠の命を求めておるのだから……。
言えずに闇に落ちた言葉は、誰にも届かず、時代の向こう岸に沈んでゆくばかりだった。
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