趙の風雲児――次なる淑妃

 当然ながら、重要な祝いの儀式の後は、どうしても大宴会になりがちだ。

こんなときばかり姿を見せた香桜に呆れつつも、一任して、天武は場を引き上げた――ところで、李逵に会った。

 李逵はいつもの、札を並べた横に飲み物を載せた盆を捧げていた。夜の公務時間だ。

 白起に次ぐ武将の誕生という、素晴らしい瞬間に立ち会った気分は瞬く間に吹き飛んだ。


「おまえは! 今日くらい勘弁せぬか!」


 李逵は頑張った。鈍いのか、天武の雷に動じない性格だ。これが奔起ならば、蝗の如く飛び跳ねるところである。李逵はきっぱりと告げた。


「お役目でございますゆえ。今夜の札を、どうぞ」

「宴会に参加せぬで、札作りか。何度も言うが、私には既に、正妃がおる。ややを抱えた正妃を放置してまで、後宮に行く気はないわ!」


 だが、李逵は黙秘するかの如く、言葉を止め、盆を掲げている。


「庚氏が生むまで続くのか、これは」

「貴妃さまが、後宮におりますうちは、続きます」


 しれっと答えた李逵に、唇を噛み締めた。

 一つを掴んで、飲み物の中に放り込んでやった。残りは片手で叩き払った。

 引いたのは、赤い札だ。


(紅……確か、遥媛公主……)


 唸るような声音を止められず、不機嫌さを露骨に現して、天武は李逵を見下ろした。


「遥媛公主のものはすべて焼けと言ったはずだが? 赤に通じるものは、不浄の印だ。しばし持ち込むなと言うたはず」

「今宵の貴妃さまは、紅がお好きでございますゆえ、自らお選びになられました」


 驚きを隠せずにいる天武に、李逵は毅然と伝えてきた。


「既に淑妃は決まっておいでです。先程、入内を済ませました」


 聞くなり、天武は唇をへの字に曲げた。

 何と気の早い。遥媛の淑妃の後釜を、もう狙っている輩がおる。


(遥媛公主の代わりの貴妃など、いるものか)


 あっさりと死んだ紅の髪の貴妃を思い浮かべると、目頭が熱くなった。

 暖かくて、受け止める時でさえ、慈愛に満ちていた。あれが仙人とは、思い難い。



 ――空いた淑妃の座を狙うとは、なんという、不埒な女か。



「今夜は〝高額で入り込んだ〟娘が待っているわけだな? 李逵。いつか、そなたは墓に送ってやる」

「それならば、何卒、愛妻と共に。死しても一緒と誓っております」


……凪の如く穏やかな李逵に、これ以上の脅しを懸けるのは時間の無駄だ。


(ふん、こっ酷く抱いて、この秦の王の貴妃とは最悪の地獄に落ちたと思わせ、出て行かせるのがいい)


 天武は苛々としながら言い返した。


「望み通り役目を果たしてやろう。娘が泣いて飛び出して来たら、おまえが慰めよ。して、娘の名は、なんという」


「それは口止めされております」


 李逵は恭しく頭を下げ、素早く下がって行った。態度で更に不機嫌が増した。


 さすがに、情報なしのままの逢瀬は気が引ける。それよりも、身元は確かなのか?


(暗殺など、企んでいるのではあるまいな)


 いいや、淑妃として認められるくらいだ。頭に来るのは、後宮の上層部が天武にすら、伺いを立てずに、貴妃を調達した部分だ。


(もう少し、李逵を問い詰めるのだったな)


 ともかく、いい加減に、あの札制度は廃止だ。意味を為しておらぬではないか。

 皇宮の寝所の回廊を渡り、部屋の前まで来ると、パチャパチャと水の音がする。禊ぎか湯浴みをしている音だ。


 ふん、いくら体を清めたところで、そなたの腹は真っ黒よ。

天武は苛立ち紛れに、戸口に掛けられた趣味の良くない面紗を手で払いのけた。


「何をされても文句は言わぬと、最初に誓え」


 女は足湯の手を止め、ゆっくりと振り向いた。


「まあ、相変わらず横暴ですのね。やはり、あっちも横暴ですの? まあ、楚では寸止めで良かった」

 声に驚いて、息ができなくなった。髪を下ろし、艶やかな笑みで誤魔化してはいるが、翠蝶華の顔付きには特徴がある。なかなか見ない吊り目だ。杏仁目の多い中、翠蝶華の眼は忘れられないほどに鋭い。

「翠蝶……なぜ、そなたが」


 牀榻に足を伸ばし、黒い羽毛にくるまったまま、翠蝶華は艶やかに笑う。


「お見知りおきを。淑妃に相成りました。えっと……」


 驚いた胆が戻った。天武は呆れ笑顔で、告げた。


「翠蝶で良い。呼び慣れている。そなた、何の嫌がらせだ」

「さあ? 嫌がらせなんてした覚えもございませんわねえ……ア」


 なぜ、翠蝶華がここにいるのか、そんな理由は、どうでも良かった。趙への進軍も、過去も全部を吹っ飛ばす勢いで、口を吸う。


 ぱち、と綺麗に縁取った瞳が何度も瞬きを繰り返し、睫を揺らす。


 一頻り感情をぶつけ、口唇を攻めて、ふっと顔を遠ざけた。眼の前には憮然とした翠蝶華の膨れ顔があった。


「噂通りですのね、性急で、乱暴で、屈辱を与えてくる。私、呂の字を描くのは苦手ですの。楚の時と同じ、ゆっくり触れて下さらない? やり方によって、燃え上がりますわよ」


 相変わらずの挑戦的な口調で、翠蝶華は企みの笑顔を見せた。


「驚いたようね。ちょうど位も空いているって、奔起からも打診を受けてましたわ。なんでも、花芯を夜な夜なでは、娘の躯が心配だとの、美しい親心でしたのよ。そうよね、ほとんどお一人で夜伽をするのは危険ね」


「そんな裏事情は要らん! 奔起を処分せねば」


 翠蝶華の腕が素早く伸び、天武の手を導いた。乳房に驚いた天武は動きを止めた。


「何の茶番だ。確かに私は、おまえを淑妃にと言ったが」


 言いかけた言葉を奪うかの如く、翠蝶華の眼光が強くなった。


「天武、男は剣で、女は鞘と言うわ。私が、あんたの鞘にならないと、天武は悪鬼になってしまう。勘違いしないで。楚の続きがしたいとか、そんな感情では」


 翠蝶華の眼がちらりちらりと天武自身に注がれてぱっと逸らされる。先程の接吻で、少し興奮したのを見抜かれたが、動じる理由はない。


「触れたいなら、そう言え」


 聞いた翠蝶華が眼を見開いた。思わず腹から笑いが込み上げて、怒った翠蝶華は足置きを投げるという暴挙に出た。

 牀榻で揉み合って転がり落ちるなど、大人の行為ではない。口元に指を這わせると、翠蝶華は軽く歯を立てて抵抗した。


 遮二無二、力尽くで抱くつもりはない。がぶりと噛ませたまま、顔を覗き込むと、視線が逃げた。


「あの夜、互いに昂ぶっていた事実を忘れはさせぬよ。翠蝶」


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