趙の風雲児――秋の太陽は、少し遠い 白起の誕生①

                *


 庚氏の懐妊、殷徳の宴の秦の古兵の死、長城崩壊……。


 理由は様々ではあるが、遅れていた白起の継承式と、陸睦他の青年たちの元服を行うと、天武が触れを出し、宮殿は慌ただしくなった。


 庚氏は、ほんの一歩を進むごとに、腹を屈める。既に懐妊より三ヶ月。医師によれば、一番辛い時期だと言う。見ていると、また嘔吐の顔をした。


 傍の女官はその度に腕を支え、背中を擦っていた。


「酷いな。別に無理して来る必要はないのだが」

「そうは参りません。秦にとって、白起の名は英雄と聞きました。私は、秦の王の正妃。その継承式に、正妃が不在など……うっ」

「慣老と医師を。気付けの薬を庚氏に与えよ。私が運んだほうが良さそうだ。そなた、太ったか」


 ずしりと重い四肢を持ち上げて、子供の如く首にしがみつく妻を撫でた。


 庚氏の疑いの視線に気がついた。


「なんだ、その眼は。私とて、妃を抱き上げるくらいするが」

「いえ。意外に力があるのだな、と。ほほ、珠羽を思い出しますわ。そうだ、天武さま。無事に、やや子が生まれたら……」


 言いかけて、庚氏はすうと寝息を立て始める。嘔吐の後だ。体力を失ったのだ。


 ――なんだ、途中で。


「儀式場まで私が運ぼう。準備している者に、庚氏の席に面紗を運べと言え。しかし、楚の庚氏が、そんなに秦を愛し始めているとはな」


 見れば庚氏は、抱き上げた上でも、手を下腹に当てている。


「それほど、大切にされるのか」


 考えたら、天武は妊娠している女を見た記憶がなかった。


(母もこのようにして、私を産んだのだな)


 ふと、女官を振り返る。庚氏が気に入っている、琴の丁寧な女官だ。


「母とは、得てして、このように子を愛すものか? まだ生まれてもおらぬのに」

「天武さま。庚氏さまは毎日、嬉しそうにお腹の子供に話しかけられます。しかし、天武さま、生まれる瞬間を見たら、多分もっと驚かれます」

「いや、見るつもりはない。母子ともに元気であろうと信じておる。予定日は、いつだ」


 女官たちは顔を見合わせ、ほほと笑った。


「天武さま、そんなに焦らなくとも、きっと無事に対面できますわよ」

「そうではない。趙の進軍が」


 女官らがにやにやと天武を見つめている。(そうなのか?)と自問自答した。

 我が子に早く逢いたいと、願っているのか。


「庚氏に似た、強い男の子であればいい」


 更に沸き立つような独り言を置いて、天武は庚氏を抱き上げて、広場まで向かった。

 普段は天壇を呼ばれる集合場には、きちんと台座が運ばれていた。総勢三千人は入れる巨大広場を、武官と女官が走り回り、最終点検に余念がない。

 その中央に、すっくと立った武官がいた。


「陸睦。まだ時間には早いぞ」


 振り返った瞬間、前髪が揺れて、片眼が露わになった。陸睦は貿易商人から教えられた眼帯という変わったものを愛用していたが、今日はそれがなく、生々しい縫合の跡が露わだ。


(しまった。眼を逸らしてしまった)


 陸睦の片眼は、天武を庇ったせいで潰された。愛馬を喪い、片眼を失い……。

 陸睦は、にっこりと笑った。陽光が陸睦を照らしている。


「今日はこっちの眼にも焼き付けておこうと思ったんです、すいません、すぐに着けます」

「いや、構わぬ。冠は、その……本当に私で良いのか?」


 実は弱冠の儀は、本来であれば親子で行う。つまりは父から息子へと、受け継ぐべき何かを受け継がせる儀式であり、本当は武大師に願おうと考えていた。

 しかし、秦の古兵を大虐殺した当夜に、武大師は秦から姿を消している。その他、魏の少年を鍛えてくれた大師に願おうと決めた矢先、陸睦は天武を恐れ多くも指定した。

 陸睦は、ようやく二十歳。天武は間もなく三十歳を迎える。


「私はおまえの眼を奪った男ぞ? 分かっておるのか」


 陸睦は答えず、笑った。随分と胆が座ったなと、寧ろ感心する堂々ぶりだ。



「――そなた、知将の荊軻を覚えておるか?」



 はっと陸睦の顔色が変わった。陸睦と、李逵は共に魏と燕の出身。更に荊軻は魏の出身。言葉を押し殺す陸睦を手で制して、天武は続けた。


「私が自他共に認めた唯一の武将だ。私は若かりし時に、荊軻と戦った。最後まで挑んで来おったわ。凄かったぞ。一縷も、私から眼を逸らさぬ。そうだな、敵が死すまでは、眼を離してはならない。はは、今でも思い出すわ」


 なぜ、話すのかと、陸睦が不思議がっている。天武は一度、眼を伏せ、ふっと口元に笑いを浮かべた。


「父からの他愛もない話だ。これ以上は苦痛。まあ、元服の日に何らかのものを用意せねばならぬ。私からは、誰にも話せぬ屈辱を見せてやったまで」


 陸睦はぐしっと嗚咽を堪え、ぐいと腕で目元を拭った。片眼が疼くのか、瞼に指を置き、押さえている。


「貴方を一人で悪魔にはさせません。俺がやります」


 天武の長い髪と、肩に羽織ったままの外箕が揺れ、砂埃が走っては消える。空は雄大な龍の如く雲を流し、秋空独特の色が、咸陽を覆っていた。


「秋の太陽は、少し遠いですね」


 陸睦が眼を細め、呟く。


「そうだな。だが、これほど落ち着く色合いも、季節もなかろう。秋の色味は心を落ち着かせる。岳樺、栗、そうそう、これは知っているか? 陸睦。五行説で秋を何と例えるか」


 陸睦は不思議そうに首を傾げた。天武は陸睦の肩を叩くと、背中を向ける瞬間に答えた。

 正直なところ、父と言われ、混同している。今ここで陸睦に感じている感情は、近いであろう。


 何かを継がせたい。引き継げるのは、きっと父にとっては息子だけだ。


「白帝。五行説では、白を西・秋、即ち西方の神。秋を司る神の代名詞だ。また、白を背負う武将よ。そなたは常に、帝と同等だ。忘れるな」


 陸睦は背中越しにまた嗚咽を堪え、しっかりと告げた。


「俺の最後の涙は、天武さまに! 二度と涙なぞ、見せるものか。今後すべての敵将の首を捕るのは俺です!」


 聞いていた天武は、少し口端を持ち上げた。


 ――待ち侘びた白起が誕生した瞬間だと、喜びを一人そっと噛みしめた。

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