趙の風雲児――人故に、人間を信じたくなった 

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 廊下に出ると、俄にざわめきを感じた。

 皇宮から天武の寝室に繋がる回廊には、飾り一つない。いかにも天武らしい作りではある。皇宮の本宮に近づくに連れ、装飾は増えてくる。

 紅と黄色を取り混ぜた装飾は後宮と同じくらいに派手で趣味が悪い。


「この布、要らないんじゃない?」


 耐えかねて、無駄な重ねを指摘させて貰った。房飾りの色を指定して、歩みを進める。

 前方の通路に足音が響いている。それも、幾人かの。

見れば、宦官やら、武人やらが早足で通り過ぎては、正門の方向に消えてゆくところだった。物々しい雰囲気だ。


「何かあったのか」


 廊下で団子になって談笑していた宦官の輪に、香桜は踏入り、問うた。

 宦官たちはすぐに香桜にかしこまる。天武の与えた軍師の称号のお陰だ。長い髪を揺らし、香桜は腕組みして、仁王立ちになった。


「どうした? もしや、また、貴妃が死んだか」

「ああ、軍師さまでございましたか」


 香桜の姿を認めた宦官たちは、ほっとした顔になった。天武でなくて良かったと、小さく呟きが聞こえる。何か大きな失態があったのか。失態した者を、几帳面な天武は許さずに斬り捨てる。しばしの間を置いた後、宦官の一人が告げた。


「酒蔵が破られたんすよ」

「また、それは、珍妙な。宝物庫ではなく?」


 宝物庫には厳重な警備が引かれているが、酒蔵とは……。


 酒蔵は倉庫の一角にあり、皇宮事務らの管轄だ。問い詰められるのは、得てして皇宮事務たちだ。

 確か、年代物の敵国の酒や、毒蝮を寝かせた高級酒なども貯蔵してあったはずだった。


「しっかりと閂が掛かっていたはず。壊された? 他の被害は? 被害の状況は」

「酒瓶が二本と、儀式に使うはずの桃酒でした」


 ついつい熱心に聞きすぎたが、酒蔵?

 ――妙な予感がするな。


「俺が見て来よう。天武には黙っていたほうが無難だよ」


 香桜は宦官らと別れ、皇宮の階段を降りた。激しく傷んでいる階段を降りて、正門への道を急ぐと、酒蔵の前で、これまた意外な人物に出くわした。

 震え上がり、後片付けをしている武官に混じって、ちらちらと見え隠れする蝶の翅がある。紅の長衣は遠目からでも、よく目立つ。「翠蝶華」と声を掛けると、赤い袖が舞い、今日は随分と手の込んだ貴妃用の髪型をした翠蝶華が、驚いて振り向いた。


「アラ。珍しい。久しくてよ」

「それは、こちらの台詞だ。うかうかと外に出ては、また天武にとやかく言われるぞ」

「私は、貴妃とは違いましてよ。自由な妓女ですわ」


 けろりと翠蝶華は言い、首を傾げた。


「宦官たちが騒いでいたから、様子を見に来たんだけど。被害に遭ったのは酒蔵だと聞いた。門番たちは無事かい」


「武器庫ではなく、お酒だけが被害に遭ったそうですの。そうそう、先ほど酒蔵から一人の男性の遺体が運び出されたわよ」


「遺体? 誰かが閉じ込められていたと?」


 反応をすぐさま翠蝶華は返してくる。


「私にお聞きにならないで! ひやりとした胆が、ようやく戻ったところですの」

 口調は涼しげだが、目元が潤んでいるのに気がついた。頬を撫でると、塗っていた白粉が指につき、少し黒い肌が見えた。

 死体をまた目の当たりにして、驚いていたのだろう。


「しかし、きみはよく、不幸に遭遇するね。白粉のせいかも知れないよ。鉛は不幸を呼ぶ。陵墓、楚……まだ見慣れないかい」


 けなしと理解した翠蝶華の吊り上がった眼が、もっと吊り上がり、翠蝶華は袖に手を突っ込んで、極小の筆を手にした。


 白粉を含んだ筆で頬をすこし撫でると、きっ! っと香桜を睨んで告げる。どうしても止める気はないらしい。更に丁寧に小指に紅を載せ、唇を染め直し、言葉を紡ぐ。


「これは女の意地よ。后戚より、美しくいたいの」


 劉剥の女の后戚と翠蝶華は、犬猿の仲だ。


 后戚はおそらく、遊牧民族ではない。北の特徴か、うっすらと白い、綺麗な肌をしていた。対して漢は遊牧民族、それも古代の兇賊の羹の名から来ている。


「元々性質が違うんじゃない?」

「本当に意地の悪い言い方しますわ。貴方は時折、天武より意地が悪いわよ」


(天武より、か。少し傷つくな)


 香桜が言葉を失った前で、翠蝶華は寂しそうに呟いている。


「酒蔵なんて言われたら、もしやと思うじゃない」


 香桜は考えるまでもなく、翠蝶華の言いたい考えは、すぐに読み取れた。

 酒=酒好き=劉剥。幼児でも理解できる図式だ。


「なるほどね。ささやかな、蚯蚓ほどの希望なわけだ」


 厭味返しをしてみる。翠蝶華は屁でもないと、言い返した。


「あの男は漢でも、酒を盗んで投獄を食らっていますのよ。ふふ、私が見つけて追いかけ回したりしましたわ」


「ああ、確かに劉剥は酒に眼がないが、天武の元に飛び込むほど、莫迦ではない」

「莫迦よ。向こう見ず。機会を逃さずに奪うのが得意の、野蛮な遊侠」


 言葉は皮肉に溢れているが、うらはらに嬉しさが混じっている。


「でも、それが生きている証拠ですわね。劉剥は、地を離れる時には、必ず最高の酒を奪って出て行く男ですわ。今回、奪われたお酒で、分かったのよ。酒瓶二本と桃酒。酒瓶二本は、子分の分け前、桃酒は……多分、后戚との祝杯用ね」


「追いかけないんだ?」


 翠蝶華は、にっこりと微笑んで見せた。

虐げられるほど、愛おしくなる。人の恋愛はヒネ曲がりすぎだ。先日の姫傑と、褒姫に比べれば、なんとお粗末か。

 しかし、劉剥と翠蝶華のような男女が一番正しい気もする。斉梁諱と褒姫のような結末は、できれば二度と見たくはない。

 恋愛は悲劇より、喜劇のほうが絶対に楽しいものだ。


「言われてみれば、劉剥は機会を読むのが上手いな。長城でも逢ったぞ」


「まあ。どうせ泥に塗れて、酒盛りでしょう」


 翠蝶華は悪態をつくと、思い切って顔を上げた。


「それはそうと、天武が何やら悪巧みを始めていると、庚氏さまに聞きましてよ。先程まで一緒にいたのですけど」


付け加え、翠蝶華は今度はほぅ、と一呼吸ついてみせる。


「おなかが大きく膨らんでおりましたわ。悪阻がお辛そうでした。それでもね、庚氏さまって、天武さまの悪口を言うときだけは、しゃきっとなさるのが可笑しくて」


 今度は笑いを滲ませる。忙しい娘だ。しかし悪口を楽しそうに言うのは、翠蝶華も同じ。


「悪巧みか。いつも天武は悪巧みしかしないから、今更だね」


 香桜の言葉に煽られて、笑いはすこし、強くなる。


「明日にも陸睦の将の昇級の儀式と元服の儀が行われる。その後は、いよいよ進軍する。俺も、兵を率いる話になりそうで、鬱でね。宮殿にいるほうが良いな」


 翠蝶華は、そう、と頷いて、憂いた瞳のまま、顔を上げた。


「趙への進軍ですわね。また、たくさんの民衆が死ぬわ。死ぬまでお墓を作らされる……いいえ、長城かしら。ねえ、香桜」


 翠蝶華の瞳は綺麗に輝いていた。涙を溢れさせて、弱気を見せようとしない。

「貴方、いつか言いましたわ。〝国の頂上の男をからかうのも、いい加減にしろよ〟と」

「ああ、言ったけど」


 ふと気付いた。翠蝶華の格好がいつもと違う。


 足が出ていない。翠蝶華は普段は妓女らしく、動けば少しだけ脚が見えるような、薄い長衣にいくつもの束帯を着け、帯を長く垂らしている格好だ。髪も縛り上げ、動きが分かる工夫の、踊り子の格好なのである。

 だが、今の格好は、まるで貴妃だ。後宮の女にはそぐわなくも、髪を一筋残らず編み込み、きっちりと上げ、釵で止めて、長衣は脚元を覆い、帯と帯紐を丁寧に垂らして、楚々と見せている。

 そういえば翠蝶華も漢の公の娘だったと思い出した。


――なかなか見られるじゃないか。舞子より、ずっと似合ってる。


 翠蝶華は見とれる香桜の前で、背筋を伸ばして、遠くを見やっている。


「本格的に、からかってやろうと思いますの」


 ふっと目元が悪女の如く細くなった。

折扇で顔の半分を覆った表情は読み取れないが、声音は震えていた。


「私、貴妃になりますわ。宮妓から、貴妃にね。どちらにしても、逃げられはしなかった。天武はね、褒姫の手引きをしたとわたしを裁く代わりに、貴妃を強要したのよ!」


 なるほど、それで貴妃の格好でウロついていたのかと、香桜は納得した。

ちょうど遥媛が死に、淑妃の座が空いている。褒姫を移用してまでもかと、姫傑に比べると、なんと不器用な男かと笑いたくなる。それに、庚氏が正妃に決まる矢先に愛人に名乗りを上げた翠蝶華の思惑も面白い。口惜しかったのだ。

 噂では、思い切り天武の横面を叩いたそうな。


「まあ、俺も本腰を入れて軍師にならないとだから、同じかな」


 白龍公主芙君にしても、香桜にしても、遥媛にしても。人間はどうしても仙人を軍師に仕立て上げたくなる。


(そうだ、白龍と貴人を探さねば)


 秦と趙の大激突に華仙人が加勢しては、ややこしい展開になる。

 ただでさえ、天武は仙人の存在に気付き始めている。そうなれば、翠蝶華が貴妃になる話は逆に大歓迎だ。


(今、気付かれては、俺の計画がままならない)


 ちら、と折扇から覗く視線は挑み、香桜に注がれていた。


「貴妃とは、夜の札を引かれて、天武の相手をする立場だけど。その覚悟があると?」

 翠蝶華は耳まで紅潮させ、焦り口調で言い返した。


「わ、わかっていますわ! 楚の夜の続きと思えば」


(楚の夜? あ、そうだ。聞きたかったのだった)


 こうなれば、もはや趙の軍師も、進軍も計画も、すべて彼方だ。香桜はにやりと笑った。

「ふうん、その続きがずっとしたくて、貴妃になって抱かれようと」

 折扇が飛んできた。

「莫迦。あ、貴方には打ち明けますわね。典客香桜。楚で私はね」

 翠蝶華はおずおずと指先をイジリ倒し、拾ってやった折扇を受け取ると、閉じたまま、口元を撫でた。


「楚の襲撃の際に、私は囚われましたの。まあ、捷紀という男が、どうしてもと言うので、天武の牽制に使われたのですわ。でも、私にも目的があった」


 香桜から笑みが消えた。翠蝶華はいつになく、真摯な口調で続けた。


「これ以上、むやみに人を殺めるなと伝えたかったのですわ。それで、捷紀の話に乗ったの。案の定、天武は足を止めた。楚の人を殺すのを止めてと私、手をついたの。信じられないでしょうけど、天武は攻撃をしなくて、『無血開城なら良いか』と聞き入れてくれましたわ」


「ああ、俺、その時いたからね。あれには、驚いた」


「その時の態度で、天武が本当に私を好きだと分かってしまったの」


 単純な翠蝶華らしい考えだ。香桜はイソイソと聞いていた内容が、何やら流れた事実に辟易としながら、聞き入った。


「天武の狂気を止められるのは私だけ。私が大人しく貴妃になったら、いくつもの命が救えるとね」


(甘いな)と瞬時に思った。だが、せっかくの婦人の決意を、わざわざここで崩す理由もない。

「それは今までは、だよ、翠蝶。趙に関しての天武は、悪鬼だ。邯鄲の攻撃を天武がどれだけの兵力で行おうとしてるかを聞けば、きみは甘言しなくなる。ここからは男の世界。生きるか死ぬか。貴妃の役割は、その悪鬼を宥めるに尽きる」

 翠蝶華に応えていると、どうしても意地が悪くなる。だが、翠蝶華は、きっぱりと言い放った。


「私は、どっちかというと、楚の夜の天武を信じたいの! 邪魔しないでくださらない?」

「だから。その続きが……」


「違いますわ! 楚の夜、天武は一人で夜、歩いて行きましたの。私、花芯妃の元に行くのかと思いながらついてったのですわ。何となく、苛々するでしょう? こっちは途中なのに。問い詰めてやろうと思ったのですわ」


 にやりとさせるような余裕もくれず、翠蝶華は瞳を上げて見せる。

白粉の上から滴が流れて、顎に伝った。


「天武はね、楚の廃墟で、泣き崩れていたの。私、最初は、無血開城などを強いられた話で怒り泣いているのでは、と思ったわ。でも、違った。後から聞いたら、唯一、殺されたのが、子供の王でしたのよ。天武はその夜、ひたすら焼け焦げた子供の遺体の前で、泣いていたの……」


 言いながら翠蝶華は涙を拭って、また小筆を取り出した。


「卑怯と言ってやったわ。意味がわからず、天武は私を悲しそうに見ていた。それからは天武を信じたくなったの。それが、人間でしょ……あの男は、悪魔じゃない」


 頬に小筆を滑らせ、白の毒の仮面を被ると、翠蝶華は背中を向けた。


「それに、天武はなんだかんだで、劉剥を見逃した。だから、私は私の力を信じるの。きっと貴方には分からないでしょう。冷たい軍師に、女の覚悟なんか理解できやしないのよ。もう終わりでいいわね、このお話」


「女の覚悟、か」


 翠蝶華の言葉を繰り返す。香桜の美しく緩やかな声音は、秋風が攫って行った。

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