趙の風雲児――時代を共に泳ぐ覚悟

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皇宮から離れた小さな離宮。

元服年十七を迎え、花芯はようやく宮殿を預かる正式な貴妃となった。小さな離宮だが、女主として、女官たちを立派に従えている。


「お離しくださいませ!」

「酷いな、引っ掻くなんて」


 頬の引っ掻き傷を香桜が指の腹で擦ると、瞬く間に蚯蚓腫れは引いていった。


「お帰りください! 樽でゴロゴロ言われるの、嫌ですの」


 泣きそうな顔を覗き込むと、視線が逃げた。どうやら香桜と一緒にいる事実を知った天武の逆鱗に触れるのを恐れている。


(おやおや。そんな可愛い反応してくれるんだ)


 いつもなら、窘める遥媛は、もはやいない。少し寂寥感を感じながら、香桜は花芯の腕を引き、開いた胸元に手を添えた。

 肩を大きく震わせて、花芯は直ぐさま反論する。


「な、な……何をするの!」


 尖った爪が僅かに皮膚を切り裂く。香桜は血の滲んだ指を舐めた。


「俺に隠し事は無用だと言ったはず。しばし待つ。胸元に忍ばせたものを出しな」


 花芯は怒りで香桜を睨み付け、動こうとしない。


「いい態度だ。悪く思うなよ?」


 躊躇せずに、胸元に手を突っ込み、暴れる腕を押さえてまさぐると、目的の小瓶は三つほど出てきた。

 実は、とっくに毒の気が見えていた。

 先日の殷徳妃の宴で、酒から香桜は天の毒、華毒を検出している。そうなれば、犯人は花芯。毒を作れる貴妃は、遥媛の亡き後では花芯だけだ。


「困るんだよ。こんなに容易に人を消しては困る。これは預かる。花芯」


 花芯は耳を押さえ、頬を膨らませ、お気に入りらしい桃扇を手で悪戯している。


 ――しかし、美しくなった。


 花芯を十三の頃から見ている香桜は、育ったあらゆる箇所を靜かに堪能した。

 幼かった桃尻は前にもまして、引き締まって弾力がありそうだ。瞳は薄い亜麻色で、金の光をちゃんと宿している。

 生まれたてのような龍の瞳は愛らしくてたまらなくなる。乳房も形良く、口唇に至っては華仙人の優雅さを兼ね揃えた濡れ具合で、恐らく局部も最上級の味わいだろう。いつ、戴こうか、楽しみな体つきだ。

 だが、出てくる台詞には可愛げがないのが、また面白いと思う。つくづく酔狂だと自嘲した。


「あたしは、天武さまのお役に立ちますのよ。趙の兵士だって、ころりと死なせて見せますわ。あっという間に、天武さまは統一を成し遂げます」


「そりゃ、困る。いいかい、きみの毒は、この時代には存在しないものだ。さあ」

「嫌……見ないで!」


 眼を逸らさせず、二つの龍眼を見詰めさせる。花芯の唇が、緩く開いた。

 同じ色の瞳が、香桜を訝しそうに見詰めている。


「イイコだ。大人しくなったね」

 香桜は、ゆっくりと聞いた。


「天武を一人求める姿は、痛ましい。花芯。おまえは、私の妻だ。ぬけぬけと他の男がいいなどと言わせるわけには行かない。今までは甘く見ていたが」


 言葉が出ないまま、花芯は香桜をただ、見詰め、すっと細い指が香桜の瞼に置かれた。


「なぜ、泣いてるの」


驚く瞼を滑る指先はひんやりと冷たい。花芯は、ひとしずく載った指先の涙を見詰めたまま。首を傾げ、香桜を凝視している。


「俺の涙が、どうかしたか」


すぐに俯いて、香桜の袖を掴んだ。

 手が、ぶるぶると震えている。頭をぶつけさせて、卜占の方士の口調になった。


「美しいはずの金なのに、見えるのは暗黒。私も、貴方も」


 花芯の心が読めない以上、言葉を待つしかない。発せられた言葉は、香桜にとっては、残酷なものだった。


「天武さまが、私から離れないような、美女に……して……」


(やはり、回り回って辿り着くのは、天武か)


 知らず泣きたい気持ちに陥った香桜に花芯は性急さを隠さずに、縋り付いた。必死の形相に言葉を失っていると、おもむろに顔を上げて、訴え始めた。


「過去に、貴方は言ったわ。私は、誰よりも美しくなれると! もう抑えきれない。私はいつか、天武さまを殺してしまいそう。触れるのではなかった……ずっとずっと、私の中に閉じ込めて、貪りたくなるの! 貴方のせい。貴方は、私が妻だという。その度に、私は天武さまへの気持ちが押さえ切れなくなるの! 隣にいる庚氏さまが羨ましくて、夜な夜な、札を操作して……!」


「天武では無理なんだよ」


 一番苦痛な言葉を発した。


「俺でないと、おまえは満足しない」


 花芯は全力で否定する。そう思って告げた台詞だ。だが、意に反して、花芯はただ、大人しく香桜の話を聞いていた。


 本音を言う行為ほど、天帝や華仙人にとっての屈辱はない。己を分からせるような行為は、命を削るも同義だ。噛み締めた唇から、喘ぎのような言葉が漏れる。

 話は、そこまでだった。天武が、すぐそこまでやって来ていた。気配でわかる。天武の気は独特だ。苛々しているから、すぐに、分かる。


「花芯。時代を共に泳ぐ覚悟があるなら、俺に縋りな」


 満足を許さない龍が、花芯を食い荒らしている。涙顔の頬を両手で包み込み、きつく抱擁してやると、花芯の瞳はもっと燃え上がった。

 地上で容易く喰うような真似はしない。着飾った後に、一枚一枚の欲望を剥いて、噛み締め味わうのが天帝というものだ。


(この手で消し去る覚悟は、しているんだ)


「今から、時代は大きく動く。二度と、華毒を天武に渡すんじゃないよ。歴史が変われば、生まれない命が増えるだけだ。華仙人の役割を、きみも果たせ」


「わたしは、人間ですわ」


 震えた声に、優しく微笑んで、香桜は続けた。


「ああ、今は、ね。ほら、天武が来た。大好きな男に抱かれるがいいよ」


 花芯は、さすがに困惑している。今のやり取りで、ようやく香桜の本気を察し、何度も顔を見ようとして、首を振っている。


「天武さまは、わたしに種をお出しにならない」


 悔しさで噛みしめ続ける口唇をそっと撫でると、花芯は儚く笑みを浮かべた。 

欲望という名前の龍気は、妃嬪に宿り、暗黒へ導く。


(俺は、きみを地上に置いておきたくない)


 天武に駆け寄る花芯を横目に、香桜はそっとその場を立ち去った。

そろそろ本格的に趙に挑む準備をする瞬間が来た。懐に忍ばせた図面を手に、香桜はニィと笑った。


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