趙の風雲児――咸陽承后殿・杪秋の候 

  2

 咸陽承后殿・杪秋の候。秦の長城崩壊から、早くも二ヶ月が経過していた。

 天武は一人、火棘の燃え尽きた南の宮殿に足を踏み入れた。

 真夏は過ぎ、厳しい残暑の中、鰯雲が広がり出し、焼けたような夕焼けを空は映し始めている。すっかり秋の匂いになった風が頬を撫でては消えてゆく。かつての淑妃の宮殿は燃え尽き、中央の柱だけが残されて、夜風に晒されていた。

 天火が燃やしたかの如く、宮殿のすべてのものが灰燼となっていた。

(そなた、最後の最後まで、仙人であったな、遥媛公主)

 気高くて、慈愛に溢れていた遥媛公主。今となれば、唯一の味方だった――

 天武は無言で、長衣をたくし上げ、膝を曲げて屈み込むと、咲いていた彼岸花を摘み取って渭水に浮かべた。

 何となく夜空に語りかけてみる。遥媛公主は夜空が良く似合うから。

 しゃがんだまま、天極の傍に寄りそう小さな星に眼を止めた。

「遥媛。そなたには聞きたい話が無数にあった。だが、そなたらしい死に態であった。地獄へは一緒には行けぬと、そう言いたかったのであろう」

 不思議な女であったなと物思いに耽りかけたところで、ふっと背中に気配を感じ、振り返った。

 ゆっくりと庚氏が進んでくるのが視界に入った。天武は腰を上げた。

 腹が重いのか、亀の如くゆっくり、ゆっくりと進んでくる。足元に薄が揺れた。

「庚氏。身重の体で、ここまで歩いて来たのか」

 腹の膨らみは日々大きくなっている。庚氏は大切そうに下腹を抱え、優雅に微笑んだ。

「私がゆっくりと後を歩くのも、気付かなかったご様子」

(尾行されていたのか)

 庚氏は、ぽつりと呟いた。

「責任を感じますわ。私が言った戯言を本気になさり、よもや遥媛公主を処刑なさるなんて。月日が経っても、痛みは消えませんのよ」

 庚氏は宮殿の庭に咲いていた秋の庚申薔薇を抱えていた。

 腹を屈めて、渭水の水面にそっと浮かべた。天武が浮かべた彼岸花と並んで、流されてゆく。

「翠蝶華も落ち込んでいます。殷徳は相変わらずのようですけれど。秦の古兵を大量に喪い、あなたへの反感も高まりつつありますわよ」

 腹を屈めたせいだ。う、と口元を押さえた庚氏の腕を引いた。

 殷徳の宴では、庚氏の白湯からは薄めた水銀が見つかっている。だが、母体共に死地を彷徨い、庚氏は奇跡的に無事だった。助かるはずのない致死量でありながら、二ヶ月が経過した今、すくすくと腹の子供は育っている。

 証拠不十分で、殷徳を永巷に繋ぐ判断はせず、訓戒で終わらせた。

「今更、私への反感など。そうだ、秦の古兵の親族が謀反を考えているらしいな」

「秦の古兵は、私を大切にしてくれた方たちですのよ。酒が強すぎたと言いますが。天武さま、もしかして」

 秋風が吹き抜けた。どうせ庚氏には答が分かっておるのだ……。

「私が殺す以外、誰がやるのだ。私には良心の痛みなぞない。願うは、秦の繁栄のみ」

 庚氏が眼を剥いて、言葉を詰まらせた。指先が震えている。

 細面の顎を摘み、眼を細めて告げた。麗しいが弱そうな睫が、ふるふるとよく動く。

「その残虐な男を騙し、種を奪った女は、誰だ。庚氏、仙人に私はなるぞ。情報をくれたからこそ、そなたを奥方に仕立てたのだ。正妃として、後宮をよりよく治めよ。私がそなたに望むのは、それだけだ」

 庚氏は、さすがに無言になった。後ろ盾であった秦の古兵たちの失脚や死で、庚氏は丸裸にされたに等しい。魏と燕の人民に支持を得た殷徳と、正妃の位を勝ち取った庚氏は、同じくらい、権力を持っている。

 庚氏はさめざめと泣き始め、天武は眉をぴくりと上げた。

「酷いお方ですわ。天武さまは、やはり私を大切にはなさらず、相も変わらず花芯に通っていらっしゃる。身重の私なぞ、女ではないとばかりの扱いですわ」

「そうは言っとらん。それに……庚氏?」

 庚氏は涙目で天武を睨み、激しく首を振った。

「では以前と同じく、夜のお召しを! 貴方は分かっていないのよ。皇宮で、誰も来ない夜が、どれだけ虚しいか。寂しさが続けば、腹のややを殴って流してしまうやも知れませんわよ」

「それは駄目だ!」

 叫んで、はっと口元を押さえ、唇を噛みしめた。

 庚氏はぱっと顔を覆っていた手を外し、ふふと微笑んで満足そうに腹を撫でる。

「安心いたしました。大切にお預かりいたします」

 ――またしても嵌められた。子供なんぞ要らぬと言っていたはずが、日々、庚氏の膨れた腹が動くと、無性に嬉しくなる。

(私が子供を愉しみにしている? 違う。これ以上に子供を屠るのが嫌なだけだ)

 夜風が冷たくなってきた。二人の足元の山茶花がゆっくりと足首を掠っては揺れている。

「少し寒ぅございます。そうそう、慣老をお寄越しいただきまして、恐悦至極に存じます」

「腕は確かだ。大喜びしよって。まあ、腹の子が太子か公主に当たる以上、私と同じ侍医でも問題はなかろうよ」

「太子か、公主……」

 意味深に繰り返し、庚氏は夜空を見上げた。肩掛けが落ちそうなのに気付き、知らずと肩を押さえる。庚氏の体温は高い。妊婦の体温は上がるのだ。

 天武は庚氏を後から抱き締めて、下腹を恐る恐る撫でると、ぼこんと音がした。手を引っ込めたのを見て、庚氏はころころと笑って見せた。

「蹴ってるのですわ。まあ、よく足が出ます。夫に似て、横暴な子になりましょう。湯浴みをしますとね、伸びて手足を動かして悪戯するので困りますの。それも楚で悪戯してきた夫の血でしょうね」

 騙した女が宿した子供。ただ、間違いなく、自分の子供だと、天武は疑わなかった。

 庚氏を抱き上げて、遥媛の宮跡をゆっくりと離れる。馬に乗せるわけには行かない。朱鷺はゆっくりと進ませ、庚氏は抱き上げたまま、皇宮に戻った。

 母子の躯は少々重い。抱き上げて正門に辿り着くと、すぐに陸睦が庚氏を引き取ってくれた。陸睦は逞しい青年になりつつあった。今や魏と燕の兵の憧れの将を極めている。

「先程、斉の国を趙国が手中にしたと、李逵さまから聞きました」

「そうか。趙の噂が、ここまで」

 ――そろそろ、頃合いやも知れぬな。

 斉を趙が滅ぼしたという事実がある以上、早めに叩く必要がある。だが、趙にも中々の猛将がいる。

 その名を申孟黎――趙の一大軍事力を一手に担う将軍で軍務最高責任者だ。

 天武は孟黎と、陸睦をぶつからせようと考えていた。陸睦も今や二十万の兵を率いる。常勝の将と呼ばれる。

「陸睦。趙の申孟黎を知っているか」

 陸睦は庚氏を大切に抱きかかえ、階段を上がったところだった。すぐに女官が跳んできて、ゆっくりと庚氏を歩かせて消えてゆく。

 正妃となった庚氏の住まいは、皇宮の中に設えている。九十九段の階段を登り切ったのを見届け、天武は衣服を緩めて、正門に寄りかかった。

「知っています」

 ぐっと低くなった声で、陸睦が答えた。

「趙の太子付きの将軍です。知力と武力を兼ね揃えている武将ですよ」

「ふん。燕の武将には敵うまいよ」

 未だに色濃く残る、燕の知将を思い出し、天武は顰め面になった。荊軻。渭水の黄河作戦で、激突した男だ。

 男だてらに凛々しく、多分、憧れを抱いたのだ。

 死ぬ間際まで、武将であり続けた、誠の王の素質を持った男の残像が消える日はない。

 腹を大切そうに撫でる庚氏と、情事の夜に優しく撫でてくれた花芯。腕の中で素直に吐露し、甘えた翠蝶華。片眼を失いつつも、背中で劉剥の剣を受けた陸睦。跪き睨み上げてきた荊軻。すべてが混合して、脳裏に流れる。

「おまえの白起の継承式を実行する。陸睦、そなたには百万の兵を預けよう。即ち、趙の孟黎と戦うのは、そなただ。戦車を用意する。完膚なきまでに踏み潰せ」

 憎悪が滲み出たのを察し、陸睦は顔色を青くした。

「百万……ですか。それは香桜さまのほうが」

「香桜は何を考えているのかわからん上に、信用ならぬ。大戦を眼の前に、笛を鳴らしてトンズラ扱きそうな性格でもある。それに、確かめたい事柄があるのでな」

 いいながら、天武は思慮を深めた。

 庚氏の話が本当なら、香桜は仙人……。

(有り得ないとは言い切れぬ。あやつには、不可思議な点が多すぎるのだ)

 陸睦は、それ以上何も聞こうとはせず、兵舎に爪先を向け、動かない天武をまた窺った。

「戻れば、後宮の札引きだ。毎晩、花芯のご機嫌取りも飽きる。李逵に出会ったら、私は遠出したと言えば良い」

「李逵さまに俺が責められます。兵は夜通し天武さま捜索です」

「……仕方がない。戻るか」

 天武はもう一度だけ、夜空を見上げ、小さく呟いた。

「趙の恨み……忘れはせぬぞ、太子ども」

 いつか、すべてを踏みにじってやる。天武は足蹴にされ、首にナワを引かれ、あまつさえ衣服を剥ぎ取られ、泥濘に突き落とされた時ですら、唇を噛んで同じ言葉を吐いた。

 人質として、いつ殺されるか知れない子供は、安寧の太子の絶好の獲物だった。

 六年間だ。母と共に匿われ、皇族から逃げ回った。

 思い出して苛々した。

(性格も歪むわ!)

 だが、今となっては、その歪みが、すべてを動かす原動力になっているのを感じる。

 ――感謝するぞ。おまえたちを屠るまでは、どのような悪鬼にでもなれる。

 天極が輝いている。秋の夜空は少し不気味だと思いつつ、見上げた。

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