趙の風雲児――子供なぞ、知らぬ母
行き交う商人たちがでかい荷物を背負い、よたよたと歩いて行く。
ふと、釵を綺麗に挿した女が見えた。
(褒姫? なわけないよな)
女は風呂敷を抱え、せこせこと歩いている。人混みの中で、商人たちの大行列に巻き込まれて流されている。
「っと。おい、爺さん、荷物!」
荷物に押され、転倒しそうになった腕を、間一髪で掴んだ。緩やかに纏め上げた髪を解れさせたが、女は無事だった。
うっかり桃尻に手をやってしまった。姫傑ににっこりと笑って、盛大な平手をかました。
「わたしの躯は、龍王のもの! 迂闊に触らないでよ!」
怒鳴ると、ぷりぷりと去って行った。助け甲斐のない女だ。
――龍王だと? 嫌なヤツを思い出すじゃねえか。しかし、いいケツだ。
長城での出来事を思い浮かべ、苦虫を喰ったところで、西蘭の釵が見えた。
*
元は邯鄲で育ち、太子の乳母として召された母が、そのまま趙王に喰われ、西蘭は生まれている。幼少は皇宮を追い出され、邯鄲にいた。
「こっちだ、姫傑」
賑やかな大通りを離れ、戸外に出て、大きな河を迂回した場所に、離宮はあった。これもまた、殷・周より引き継いでいる絢爛豪華な離宮だった。
「親父、なんで趙姫だけは、離宮に置いてたんだ」
「すぐに分かるよ。あたしも幼少に散々見ちまって、そんで覚えたもんだ。どう? あたしの技、見事だろ?」
ふふんと胸を張って、西蘭は勝ち誇った。全く以て話が繋がらない。
(時折、こいつって、わかんねえんだよな)
頭がいいのか、莫迦なのか。姫傑と西蘭はお互いの知力を長年ずっと計り損ねていた。似たもの同士過ぎて、情愛にはほど遠い。愛憐のほうが楚々として、いい女だと思う。
だが、西蘭の裏にいる、兄の申孟黎の権力は皇族を勝っている。百二十万の兵力は孟黎だからこそ、持てた趙の一大兵力だ。それでも孟黎は、兵を出そうとしない。
斉の海匈奴を追い払う時でさえ、動かなかった。
辿り着いた離宮には武士が二人。じろじろと二人を見下ろして、鑓を構えた。
「俺だ、退けよ。太子姫傑! ほれ、皇族の紋章!」
面倒くさいので、紋章を突きつけると、二人の門番はすぐに門を開けた。入ってすぐ、西蘭と顔を見合わせる。
日中から、女のかぼそい声があられもなく響いている。紛れもなく趙姫の声だ。
数多の王を手中にし、籠絡を繰り返す天武の実母は、序でに言えば、姫傑の母を降嫁させ、死に追いやった悪女でもあった。
「終わるまで待て。俺は真剣な話をしたいんだ。あんな色情狂と、話なんかできるか」
聞いた西蘭は姫傑の前を無言で通り過ぎた。手入れされた髪が香を残して揺れて行く。
「失礼いたします! 奥方さま。西蘭でございます。本日は、王をお連れ申しました」
ぴたり、と声が止んだ。
ちょい、と西蘭が恐れ多くも、姫傑に向けて親指を動かす。
姫傑は腰帯を締め直し、躯を起こして、趙姫を見た。絡んだまま、王の姿に気付いた相手の男がみっともない姿でばたばたと逃げて行く。
無粋なと言いたげに、女が髪を掻き上げ、じろりと姫傑を睨んだ。
――うっそだろ……。
少し垂れ目で、艶やかな目元には皺一つない。肌は白く、乳房も、堂々と見せたままの局部も、熟女のものではない。
「憧れだよ。趙姫さまの美しさは」
うっとりとした西蘭は、気付いていない。
(確かに、化粧で女は若返るって言う。こりゃ、歳を取っていねえんじゃねえか)
「あ、お楽しみのところ、失礼を。ちょいと聞きたい話がありまして」
趙姫はむすっと唇を結んで顔を背けた。爪先が苛々しているのか、絶えず動いている。
「最近、王が来なくなった。寂しゅうて。若さを保たないと、仙人は来ない」
趙姫は、うっとりと手を伸ばした。
「私は龍の子を産んだ、なのに、なぜ、逃げる」
西蘭が付け加えた。
「まともに話はしないよ。正気なのは、性交中だけ。これが秦の王の母とはねえ」
びくんと趙姫の肩が震え上がった。
「あの、子が、くる。悪魔の子が、くる」
呟いて、磨かれた爪で、壁を引っ掻き始める。服が滑り落ちて、四肢が露わになった。唾を飲み込み、姫傑は低く西蘭に告げた。
「この女と話がしたい。おまえ、外に出ていろ」
「いやだね。あんた、便乗狙いだろ! 趙の男は本当に色狂いだよ。ったく、仙人以上の好色男。どうせなら、見ててやろうか」
「西蘭。おまえのほうが好色だ! 俺は話がしたいだけだっつーの。秦との大戦には、この女は欠かせねぇだろ。最後には天武の野郎の前に引き出してやるつもりなんだからよ」
暴れる女の手首を掴み、敷いたままの牀榻とは言えない寝台に押し倒すと、趙姫は、にやりと笑って腕を回してきた。
「若き王に、よぅ似ている」
「まあ、息子だからな。あんたもハナタレ天武に、よく似てる」
うっとりと開いた唇のなまめかしさに息を呑み、姫傑は上から趙姫を覗き込んだ。
「あんたの望みは、なんだ。一つだけ、叶えてやるから、協力しろ。おい、足を開くな」
無意識に誘う仕草を繰り返して、趙姫はうっすらと笑った。
「わたしを愛欲に落とした男を連れて来い。迎えに来ると言って去った。仙人は嘘ばかりつく! 天武なぞ知らぬ。子供なぞ、知らぬ」
趙姫は涙を溢れさせて繰り返した。
「天武なぞ、知らぬ。子供なぞ、知らぬ」
後は繰り返すばかりで、姫傑は諦めて、躯を起こした。眼の前の趙姫は足をすりあわせ、小指を懸命に舐めねぶっている。
――莫迦野郎。天武の母なんぞ、抱けるか。誘うな! 悦ぶな! 俺!
治まれ治まれと眼を伏せた向こうで、趙姫は突っ伏して泣き始めた。感情が安定していない。呼び鈴を鳴らすと、男が現れた。男に泣きつき、腕を絡める趙姫に、姫傑は大声で問うた。
「その仙人の名前は! 俺は知ってんだ。仙人は、確かにおる。あいつらは指一本で人を割き、大地を腐らせ、皇宮を氷に閉ざす。龍の吐息は長城全部を吹っ飛ばす」
凄いなと言わんばかりに西蘭が話に聞き入った。
直感に頼るしかなさそうだ。姫傑は、眼を閉じた。躯に流れる血の熱さを感じた。時代を流れた男の血が、姫傑のすべてだった。
「あんたの時間と心を凍らせた男は、誰だ」
挿入を果たした眼が、一瞬ふっと正気に戻った。
(白龍公主か? それであれば、趙姫を見逃した理由も分かる)
ぼんやりと男を受け入れながらも、趙姫はしっかりと正気を取り戻し、続けた。
「龍様を知り、躯に暴れる龍は、常に快感を求め続ける。迎えに来ない龍様を待つため、老化すら、拒む。私は死ねないの。ああ、逢いたい……っ」
小さい脳が制限を訴えてきた。混乱したまま、西蘭に導かれ、外に出ると、太陽は雲の向こうに隠れていた。
(仙人と絡み合う母親を、ここで天武は見た。たとえば、俺らが閉じ込めた亀樽の中とかから、声を聞いていたんだ)
ちょうど柱の低い位置に、爪を立てた痕を見つけた。子供の身長だ。
天武は華と仙人を徹底的に嫌悪している。それが母親を取られた子供染みた復讐心からだとしたら?
足を止め、もう一度じっくり離宮を振り返った。
秦との大戦には、趙姫を引きずり出して神輿にするのが一番いいと分かってはいるが、天武の眼の前で、趙姫を掲げ、殺せるか。
心を読み取った西蘭の優しい剽軽な声が、姫傑を包んだ。
「あんた、冷酷王にゃなれないねえ。まあ、いいさ。仙人を手にしてんだろ。何とでも、なる!」
思い切り背中を叩かれて、姫傑は唇を噛みしめた。
天武の秘密は手中にしたが、何とも気が晴れない。
腹の中には靄が立ち篭めるような、そんな負の気すら、感じていた。
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