第六章 趙の風雲児 涙飛びて 天河を傾く雨と為らん

趙の風雲児――嬴姓趙氏の水門で

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 周王が封ぜられたのがそもそもの発端の大国・趙。正しくは嬴(えい)姓(せい)趙(ちょう)氏(し)と呼ぶ。

 西には太行山脈がなだらかに続く。麓には滏(ふ)陽(よう)河(かわ)が、南を漳(しょう)河(が)が流れる。支流が二本もあれば、当然、水門も巨大になる。いくつもの大水法が並ぶ水門は、趙の名所でもある。

 首都・邯鄲に通じる石の道は太陽を浴びて、白く輝いている。

 商人たちが行き来するのを眺めながら、趙(ちょう)姫(き)傑(けつ)と申(しん)西蘭(せいらん)は並んで皇宮を目指していた。

 見事な青空が拡がっている。今日は晴天で、雲一つない。

 しかし、太陽がいくら昇ろうとも、永遠の氷に閉ざされた元皇宮は溶けず、寒々しい姿を、姫傑のいる仮宮からも見せつけていた。

 ドオオオン。水門に近づく度に、怒濤の水音が響く。

 殷の時代に作られた離宮がそのまま、皇宮となった趙の王の宮は、白龍公主により、封鎖されたままだ。

 一番大きな関、武霊叢台の楼閣の手前で足を止めて、しばし水門を眺める。


「なんで、急に行きたがったんだい? 敬遠してたろ」


 聞きながら、同じく西蘭は水門を見上げた。

 綺麗に結い上げた髪を揺らし、爛々と眼を輝かせている。西蘭は、趙の皇宮の貴妃。滅多に外には出られない立場だ。同行を願ったら、喜んで外に飛び出して来た。

 西蘭は、目鼻だちがくっきりとした美人で異母兄妹に当たる。

 姫傑の太子継承の時には、添い伏しを見事に務め上げ――つまりは太子の姫傑に夜のいろはを教え込んだ女なわけで。

 見上げた瞳に笑って、唇を近づけて、口唇を吸って、柔らかな感触をしばし味わった。


(褒姫と似てんだよな、唇)


 気の強い西蘭は絶対に逃げたりはしない。太子の姫傑に触れられる喜びが分かっている表情だ。遠慮なく手が出せる。舌を絡め、本気になりかけたところで、西蘭の爪先が姫傑の脛を蹴った。


「姫傑、また太子婆にどやされるよ。小難しい書簡を読みたい? 夜の相手なら、戻ってから、たっぷりしてやるから我慢しな」


 おっとりとしているが、睨むと、なかなか迫力がある。そんな部分までもが、褒姫に似ている。


「まあ、それどころじゃねえな、すまん」

「分かればいいよ」


 西蘭の声は、少しばかり高いが、舌っ足らずで剽軽だ。

 気分が良くなると、趙の歌を口ずさむ。歌妓を目指していたにしては、少々外れるのがまた愛らしい。

 突然、名前を呼ばれて、振り返った。西蘭は乱れた襟元を直し、胸に下げた宝玉を抓んで顔を上げた。


「あんた、皇宮には二度と行かねえって言ってたろ。一瞬で、何百人が凍った? しかし、仙人の力って、恐ろしいねぇ」

「ああ、凄かったぜ。あの力で秦をぶっ飛ばせって言いたくなった」


 ふうん? と丸い頬が傾けられる。


「そのほうが、綺麗に片付いたんじゃないかい?」

「それじゃ、斉梁諱と褒姫に向ける顔がねえだろ」

「ああ、あんたの斉での初恋の姫さんか。あたしは、てっきり連れ帰って来ると思ったけどねえ。ここぞと言うときに、使えない男だね~」


 言っておくが、西蘭に決して悪気はない。だが、時折こうして棘のある毒舌を吐いてくるのは性格だ。


「見えて来たね」


 二人は足を止め、凍り付いた皇宮を見上げた。白龍公主の永遠の氷に閉ざされた皇宮は、冷風が吹き抜けて、まるで冬だ。

 殷時代から誇った正門も、黄金の龍も、よく見れば逃げ出そうと上半身を乗り出させた女官や、宦官、武人までもが、氷の世界に追いやられている。


「あんたの気に入らないモンが、全部ここに入ってるってわけだ。全く思い切った行動をする。仙人を使って皆殺し、そんな度胸があるとは」


 西蘭はさすがに近づきはしたが、ひらひらの袖で口元を覆い、眼を背けた。


「あたし、ここにいる」


 苦笑いで頷いて、姫傑は手を凍った皇宮に当て、頭上を見上げた。

 氷の垂れ下がった氷柱の一部分は鑓の如く鋭くなっており、たとえ細い氷も、突いても割れやしない。

 明らかに、地上の氷とは違う。趙の王であった父の姿は見えない。いや、恐らく破片すらもない。皇族の一部を殺したのは、貴人の腐り蛇だった。

 どろどろに融けて、白骨になったまま、凍っているはずだ。

 唯一凍っていない出入り口から、中に入ってみる。ひんやりとしていて、見ればいたるところに人の一部分が浮かんでいた。まるで氷展示だ。

 歩いてゆくと、回廊の扉に突き当たった。場所でいうと、この向こうが王座だった。

 どうやら行き止まり。しばし目を閉じて、踵を返した。


                 *

 外で待たせていた西蘭は、寒さで上着を肩に引き上げて、しきりに腕をさすっていたが、氷の宮から出てきた姫傑を見つけると、ほっとして、微笑み返す。


「気が済んだかい」

「次は邯鄲の離宮。趙姫への謁見だ」


 声を掛けてきた西蘭の手を掴み、足早に後にした。西蘭は頷いて従いてきた。


「なぜ、趙姫さまだけ、生かしたんだよ。秦の王がムキになるだろ」

「だからだ」


 手短に答え、水門を通り過ぎる。邯鄲の都の正門に向かっている最中に腹が鳴った。

 気付いた西蘭がぷっと笑って、「食べ物を調達してくる」と街に消えた。


(何があろうと、腹は減るし、屁も出るし、眠くもなる。斉梁諱と褒姫を喪っても、陽は昇る。でかい流れの中の俺なんざ、小石よりも小せえもんだ)


 ――ただ、思う。あの二人には生きていて欲しかったと。


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