斉の桃花扇――褒姫の笑顔

 かり、と親指を噛むのは翠蝶華の癖だ。

 香桜には未来が見えていた。天武は、褒姫など一切、相手にしない。と言うよりも、知らない。憐れだが、褒姫には未来はない。


「気が済んだら、大切な人の元へお帰りなさい」


 褒姫はしっかりと目線を定め、頷いた。


「ええ。待っている人の元へ、帰ります。すべて終わったら、待っている愛おしい人の元で眠れますでしょう」


 不本意ながら、待っている相手が姫傑であれと祈りたくなった。


 ――皇宮を行き交う人の波とともに、すれ違い、進む。


(嫌だな。また俺を見るなり怒ってくるのだ、天武は)


 香桜は、作戦を出せ! との言葉を、しれっと無視し続けている。天武は趙と斉を滅ぼすための策を待っている。

 宦官たちが後宮を忙しなく歩き回っている。今夜の殷徳の祝いの宴の準備だ。ふと、陸睦を見つけた。やがて秦一の武将となる魏の少年に、殷徳妃。


「まあ、殷徳さま」

「翠蝶華か。久しいの」


 翠蝶華は職業柄、実力のある四妃に明るい。徳妃・殷徳は相変わらずの淫猥な肉体チラ見せの服を惜しげなく晒し、更に迫力を増していた。後には魏の兵たちがずらりと並び、従っている。

 黒子が淫奔さを訴える口元の笑みは、醜悪な女の気配を醸し出させる。


「珍しいのう。咸陽の一、二を争う宮妓二人が揃いも揃って何の用かえ?」


「天武さまに、新しい宮妓を紹介しに行くところですわ」


 度胸のある翠蝶華が、のうのうとホラを吹いた。

 殷徳は遥媛公主が扇ぐ桃花扇を更に大きくし、長い柄のついたいわゆる屏風扇と呼ばれるものを愛用している。大柄な殷徳に似合いの扇だ。

 香桜の横をすり抜けながら、殷徳が告げた。


「そうそう。今宵は楚の鴉が死ぬ夜。白湯には口をつけぬようにな。泥棒鼠の駆除ぞ」


 ゆったりと扇を扇ぎ、殷徳は笑った。

 同時期に後宮入りをし、女王の座を奪い奪われつつ、後宮の派閥を広げた二大貴妃。殷徳と庚氏の力は日に日に強くなっている。力とは人を従属させるものに他ならない。しかも、天武の与り知らぬ話だというから面白い。


 妃嬪が作る系譜だ。いつの世も、男は女に勝てぬ部分がある。


「俺は傍観するだけだ。勝手にやればいいさ。宮妓からも、彩りを加えさせて戴こう」


 ふっと笑って、殷徳妃はお気に入りの少年たちと共に、燕の宮殿への回廊に戻った。香桜は、眉を顰めた翠蝶華の不機嫌な視線に気付いた。


「香桜。何よ、今の話」

「翠蝶華。そう騒ぐなよ。そうだ、殷徳の庭に、酒の池でも作ってやろう!」

「大昔の殷の莫迦王じゃあるまいし。そもそも、状況がわかっているの? 褒姫の事情、忘れてんじゃないわよ。可哀想に、夫を亡くして、その上で宴会に付き合わせるの? 信じられませんわね。時折、常識を疑うわ」


「まあまあ。遠い異国では、死した人を弔い、酒を飲んで別れを告げるという。それに、天武は酒に弱いんだ。酔って酒池に落ちて溺れたところを、きみがぶすりと」


「まあ! 秦の王に何て狼藉をさせるの? みっともない天武など、見たくもないわ」


「弁解したね? きみ、何気に天武が好きだよね。楚では何があったんだい?」


 翠蝶華と香桜はすぐさま顔を見合わせ、角を突き合わせた。


「いやらしい話」

「なるほど、やはり、いやらしい話か」

「ぅふふ」


 小鳥の如く小さな笑い声に香桜と翠蝶華は小競り合いを止めた。アラと翠蝶華が褒姫を覗き込む。褒姫が笑い声を上げていた。


「可愛らしい声! 貴女、このまま咸陽に」


 単純明快な言葉を仕舞い、翠蝶華は俯いた。楽しさのあまり、褒姫の境遇を忘れたのだ。

 香桜は、翠蝶華の態度と、愛らしい褒姫の声に、笑顔になった。


(良かった、笑った)


 夫を殺され、無理強いで抱かれ、貴人の龍に脅かされ。それでも、褒姫は笑える。それこそが、斉梁諱との日々で得た宝物。褒姫の笑顔は素晴らしいと、香桜は見惚れる。


 女性は笑っていて欲しい。女性は華であり、蝶だ。翅を休め、笑う表情は、それはそれは芳しく、美しいものだ。それが泡沫の時であっても、美しさは忘れてはならない。


 地上に降臨し、伝えたい事柄の一つ。ようやく見つけた気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る