斉の桃花扇――対秦の古兵即ち殷徳妃対庚氏妃の対立図
*
北の殷徳の宮殿は、あまり踏み入った例がない。翠蝶華が褒姫を自ら着飾らせると言うので、一緒に付き合ったが、勢いよく服を脱がすので、退散した。
派手好きな殷徳にしては、質素だと思っていたら、柱には金粉が吹き付けられていた。真鍮柱に寄りかかって、香桜は外を見つめた。
庭では大振りな牡丹が見事な花香を匂わせている。牡丹は別名を天香国色といい、花王の名を欲しいがままにしている天花でもある。
褒姫にも一輪と思い、香桜は柱に寄りかかっていた背中を起こした。
武人たちが、わらわらと集まっている。陸睦の姿を認め、香桜はゆっくりと近づいた。
「また、天武にどやされるよ。武人が宴に参加など、許されない」
「殷徳さまは、魏の者にとっての母です。俺らが、秦の軍に参加させて貰えたのも、殷徳さまの力があったからこそ。お国の燕を滅ぼされて寂しいでありましょうに。俺たちに馬や、武具を差し入れてくれるんです」
(ふむ、ここに魏の少年たち対秦の古兵即ち殷徳妃対庚氏妃の対立図ができたわけか)
それにしても、どうして魏の少年たちや、殷徳は滅ぼした天武に心酔している。
それを言うなら、遥媛もか。強い者に従いたいという奴隷根性か? 少なくとも、天武は喜びそうではある。王に祭り上げさえすれば、天武は無害な子供だ。
「できましたわ」
褒姫が結い上げた髪を不思議そうに撫でながら、姿を現して見せた。まるで百合の花だ。いや、胡蝶蘭か。一瞬で場が華やかになる。
陸睦を始めとする魏の少年たちがぼけっと口を開けたまま、通り過ぎて行く褒姫を見つめている。
褒姫の焼けた髪は、銀糸で結ばれ、ところどころに銀糸を伸ばし、煌めいている。口紅は綺麗に縁取られ、優しそうな目元には高級な巴旦杏の色を載せて、いたく色っぽい。
服は白い肌の褒姫によく似合う薄い水色で、爪には鳳仙花の塗料。香料を少し塗り込んだのか、肌を揺らす度に香が拡がる。最後にしゃらんと鳴る釵を指して、支度完了だ。
だが、麗しいはずの貴妃の瞳は、復讐の色に燃えていた。翠蝶華が額の汗を腕で拭い、疲労の滲んだ声を響かせた。
「褒姫。あたし、あんたに死んで欲しくないわ。美しく着飾って、それが決死の覚悟だなんて、涙が滲むのよ。そんなに、好きだったの?」
まずいな、と思った。褒姫はいつどこで心が崩れるかわからない。翠蝶華の性格は竹を割ったような性格だ。やんわりと追い払う対処に決めた。
「翠蝶。きみの出る幕じゃないよ。そうだ、あそこに、劉剥にそっくりな兵が」
「懲りませんわね! 乗せられなくてよ! どこですの!」
翠蝶華が鋭く香桜を睨み、焦った風な早足を隠して、結い上げた髪を揺らし走り去った後で、褒姫が頬を染めて呟いた。
「秦の王は、どちら? 早く梁諱の笑顔が見たい。私の中で夫は微笑んでおりません」
「美しいきみを、きっと空から見てるよ」
何より夫に見せたかったであろう艶姿が、ただ、寂しく其処に輝いていた。
*
宴とあらば、正装は当然でございますと猿の気持ちで着飾らせられ、天武は回廊を歩いていた。しかし、殷徳に逢うのは久しぶりだ。
思えば最初の貴妃だった。夫を亡くしてしゃあしゃあと居座った時には神経を疑った。
(燕か。一度巡遊するか)
燕を滅ぼした事実を、思い出す。だから殷徳妃とは関わりたくはないのだが。
その道すがら、大きな穴が掘られているのに気がついた。
むっと立ち篭めた酒粕の臭いに、天武は眉を顰めた。
「誰が、こんな莫迦なものを! 埋めるのだ」
「勿体ないです、天帝」
天武は皇宮の迷路回廊を抜けたところで、殷徳と再会した。かれこれ一年ぶりの逢瀬だ。遥媛公主以上に足どころか、局部ぎりぎりまでを長衣で覆い、気持ち程度に肩掛けるせいで、見事な肉体を見せているだけではなく、帯を緩くし、乳房を自由に揺らしては、腕で押さえている。嫌気がさした。
「気がついたら、できていたのです。それが、まろやかで美味で。天龍からの捧げ物でございましょう。今宵の宴に彩りを加えると、宮妓たちからかも知れませんのう」
「ともかく、あんなものを庭に置くな、直ぐに撤去」
「今宵だけですよ。朝になれば消える代物です」
香桜だ。与えた軍師の格好ではなく、相変わらず趣味の悪い民族衣装。軍師を全うする気はないらしい。天武は苛々と言い返した。
「また、そなたは! 典客の宴への参加は許可できん。参加したければ、いい加減、趙へ進軍するための」
香桜は、ぽいと書簡を天武に放り投げた。おお、と開けば庚氏からの書簡だ。楚の進軍の際に預かっていたとの言葉は聞き流し、膝で二つに盛大に折って、酒の池に放り捨てる。けたけたと笑った香桜に足を進めた。
おかしいと思いませんの? あの、香桜。
庚氏の言葉が過ぎった。
「庚氏が、そなたを仙人ではないかと疑っておる。私も思い当たるフシはある。そなた、私と斬り合ったのを覚えておるか?」
「花芯の取り合いですね」
身も蓋もない。二人は睨み合っていたが、先に口を開いたのは香桜だ。
「花芯妃を随分と夜に召していたようですが」
「花芯との夜が多いのは、秦の古兵たちの仕業だ。欲しければ、持って行け!」
何故か香桜は、嬉しそうに笑った。全く食えない男だ。
やがて遅れて庚氏もやってきたが、正妃気取りの着飾りに言葉をなくした。金を流し込んだ王冠には、秦の紋章の他、庚申薔薇が彫り込まれていた。
「その冠を誰が許可した」
「武大師さまからの贈り物ですわ。あら、天武さまは確か、紅がお好きでしたわよね? 翠蝶華の紅、遥媛公主も紅の髪、花芯妃も。庚申薔薇の象りを怒っていらっしゃる?」
「ああ、そなたの楚の国花か。時に庚氏、この間の話」
香桜と遥媛公主の話に引っかかりがあると言おうとして、遠くから遥媛公主の赤い髪が見えるのを眼で捉えて中断する。
「まあ、珍しい。斉の公主さままで。殷徳の権力の幅が知れますわ」
言いながら、ぎりぎりと歯軋りをしている。鬼のような眼に、さすがに声を掛けた。
「庚氏。般若顔を私に見せるな。腹の子に良くない」
庚氏が驚きで無言で天武を見つめている。
「……動いておるぞ」
笑いを零し、庚氏は天武の手を、自分の下腹に当ててみせる。どくん、どくんと確かな息吹に目頭が熱くなった。
策略の末にできたややだ。感動など、皆無なはずが、天武はどうしようもなく、ただ息を呑んだ。ややを宿した庚氏は、いつになく優しく見える。何となく視線があって、織姫と牽牛の如く見つめ合い、互いを瞳に映し合った刻、宴開始の楚の太鼓が鳴った。
「まあ。何という心づくし」と故郷の音に庚氏は微笑みを零し、傅いた女官の花道を悠々と歩いて行く。
見ればまた古兵と新兵が、おし問答をしている場面に出くわした。
天武は花芯から預かった華毒を袖の下で握りしめた。庚氏がそっぽを見ている隙に、酒池に瓶ごと放り込み、しれっと正面を向いた。
酒に溶けた猛毒は、不可思議な死として処理される。突然、湧いた得体の知れない酒だ。毒が混じっている可能性が高いとして不思議はない。
迂闊に人を消せば、糾弾される。昔と違い、今は官吏や政治・軍務機構が天武を見張っている。長剣を振り回せば、厄介な事項にもなりかねない。要らぬ者は人知れず、去らせるが一番だ。
小瓶の沈んだ酒池を睨んではいたが、天武はやがて興味をなくした。
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