斉の桃花扇――悲劇の王への道

           

               

 夜の長城にふわりと、かつての面影が舞い降りた。香桜は視線を靜かに上げ、透けた遥媛を見つめた。眼の前で、遥媛は丁寧にお辞儀をした。

 ――天帝龍仙一香。遥媛は、一足早く、華仙界に戻ります。

 それだけ残して、香桜を取り巻いて、一筋の風になった。小さな光が一緒に舞い踊っている。遥媛を追いかけては、一緒に抱かれようとする。風が気がついて、止まった。

 確かに子供を抱き、空に消えて行った。


「天女が人間の子を宿すなんて。しばらく修行しな、遥媛。遠き未来にまた逢おう」

 香桜の呟きもまた、涙を含んで、長城に消えた。



               10



 一方趙の姫傑は、秦から戻り、すぐに秦と楚に間諜を放っていた。

「なんだと? もう一度、はっきり言ってみろ!」

報告を黙って聞いていたが、耐えきれなくなり、口調を荒くした。

秦の間諜が、宴から褒姫が消えた事実を告げた。褒姫は一時的にだが咸陽におり、その後は、煙の如く消えたという。

 後悔で、涙が溢れた。だが、側近は、王が泣く行為を快くは思わない。泣き止めと言い聞かせても、涙が止まらない。


〝この方、感情が爆発すると、落ち着くまで時間が掛かるのです〟


(うるせえ、褒姫。その通りだ、くそっ)


ふと、柔らかい手が姫傑に載せられ、姫傑は涙を止めた。


「泣くな、あんた。今や太子でなくて、王なんだろが」


 腹違いの妹姫であり、愛姫の西蘭だ。気が強いところが、褒姫に似ている。細腰宮を持ち、なかなか性戯もレベルが高く、愉しませてくれるお気に入りの姫だ。

ここぞと言うときに強い発言をするので、重要会議の発言も認められている。

白龍公主の皇族虐殺の中で、生き残った兄妹だった。字を申(しん)西蘭(せいらん)・申(しん)孟(もう)黎(れい)という。

「あんたが、やらなきゃなんないんだよ。太子姫傑。大丈夫、兄の孟黎も力を貸す。兄は分かってるさ。あたしが後宮に居座ってりゃ兄は動くよ。秦と大決戦、やらかそうよ。見て? 釵、似合うだろ?」

 ね? と優しい微笑みに、鼻を啜り、姫傑が立ち上がった。


「いや、まだ早ぇ。まずは、斉を潰す! 海に沈めたらぁ!」


 噂では、海匈奴に媚びを売り、大好きな花街を差し出し、身の安全を確保した斉の王。


 太子であった斉梁諱の離宮は、朽ち果てているという。大切な場所を踏みにじった恨みは、返してやろう。



 その後、姫傑は不眠不休で軍を編制し、四十万の兵力で、斉の王城を陥落させた。



(斉梁諱、褒姫の恨みは、俺が秦王に必ず思い知らせてやる! 咸陽に兵力百二十万を投入して、てめえの大切なモン、全部ごっそり奪い尽くしてな!)


 隣の美姫の手を掴んだ。ぱち、と大きな瞳が姫傑を映していた。


「仕方ない男だねぇ。また、抱いててやるよ」


 姫傑は西蘭を絶えず傍に置き、作戦を練り、斉にて大暴走とも言える水攻めを繰り広げた。斉を沈め、花街を遷し、王の首を捥ぎ取った原動力が、たった二人への鎮魂の意だと、知る者はいなかった。

香桜により、姫傑もまた、悲劇の王への道を選ばされたのだった。

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