斉の桃花扇――口訊けぬ宮妓の天武暗殺
6
宴は楚々として行われるものだが、一斉に宮妓が踊り出てくる。皇宮を生業とする香桜率いる秦の宮妓たちが、彩りを加えてくれる。こうして見ると、秦も随分と賑やかになったものだ。
楚の項賴の宴も見事であった。文化を生かし、国の巨大さを誇るような数々の舞子たちに、数多くの妃嬪。一緒に並んだのは花芯だった。氷菓子に夢中で見てはいなかったが。
「天武さま、お目当ての宮妓はあそこですわ」
余計な一言を庚氏が告げてくる。天武は興味のない振りをして、ふと、翠蝶華の隣でよたよたと踊っている宮妓に眼をやった。
翠蝶華の妹分? ――こっちに、来る。
天壇を模した高台に天武と庚氏は立っている。その二人の直線上で、翠蝶華と宮妓は剣舞を披露した。背景には酒の池があるが、まだ誰も倒れる様子はない。
今夜は庚氏の訪れで、秦の古兵も数多く集まっている。絶好の機会なのだが。
(実は毒ではなかったとか? 花芯の単なる花びら集めか? 人騒がせな)
陽が完全に落ちると、北の宮殿は一気に光を喪う。だが、陰に松明を持った宦官たちがいるのを見つけ、天武は身を乗り出させた。一気に点灯させるつもりなのだろう。何と贅沢な。殷徳の考えそうな話だと隣で庚氏が腹を押さえ、前屈みになった。
「どうした? 庚氏? 腹が痛むのか」
庚氏は喉を掻き毟り、指を白湯に向けて息も絶え絶えになった。
「白湯になにかが。ややが」
暗闇の気配が止まった。瞬間、火花が散るほどの頬への攻撃を食らった。わけがわからず、眼を凝らすが、見えそうで見えない。やがて気配を捉えたが、女。
(香が別れた)
「赤ちゃんがいらっしゃいますの?」
小さな声が響く。
「秦の王でございますか」
「そなたは、誰だ。暗くて顔が見えぬ。……っ! 私の頬を叩いたのはどやつだ!」
暗闇の中で、また一発平手が舞い、気配が一つ、また完全に消えた。もしや悪霊かと天武は庚氏を抱いたまま眼を凝らす。釵が見えた。やはり女だ。
「私は、斉の斉梁諱の妻でございます。こんな状況で失礼いたします。夫を知りませんか? 先日、冬着を届けに来たのですけれど、長城の指揮官として働いているとばかり」
「は。知らぬわ」
斉梁諱の妻だと? 斉と秦は遠く離れている。夫を探して来た? 有り得ない。
「そうですか。では……気が変わりましたわ。どうして私がこんなに哀しんでいるのに、夫を殺したあんたに赤ちゃんがいるの! 私は梁諱に抱かれてもいないのに……!」
泣き崩れたのか。女が靜かになった。天武はようやく理解した。暗闇に慣れて来て、朧氣だが、相手を視認できてきた。
眼の前の女は、斉の太子の妻だ。間違いない。
宴に火が灯り、ようやく視界が開けた天武が見たのは、酒池に突っ込んだまま死した兵に、泡を吹いて倒れた殷徳を一生懸命に運ぶ宦官、壁の上に悠々と立ったまま、次々指先から火を移す遥媛公主の姿、女を背中から大剣で貫いた将の姿だった。
「俺は、片眼の痛みを和らげる薬のため、酒は飲まないんだ」
片眼を隠した陸睦だった。
眼の前で、女は倒れていた。暗闇の中、確かに女の剣は天武を狙っていた。遥媛公主が炎を渡してゆく中、陸睦は天武の後に移動していた。舞に騙されず、女の隠し持った剣を見ていた。
「まだ生きておるな。酒の池へ投げ捨てよ」
「お待ちください!」
――遥媛公主は、仙女ですわ。空を飛ぶのです。
信じがたかった。だが、遥媛公主山君は、天壇の城壁から、円蓋に渡り、音もさせずに天武の前に舞い降りた。
言葉を無くした前で、遥媛公主は膝をついて、懇願した。
「この者は、私の義姉。斉の無礼の咎は私が代わりに浴びよう。褒姫、良いな。斉へ戻れ。戻って兄を弔い、靜かに暮らせ。天武よ、この遥媛がすべてを引き受ける! 義姉を見逃して欲しい」
天武は剣を仕舞い、低く呟いた。動揺で、言葉は途切れ途切れになった。
「そなたの、その物言い。かつては、腹が立つほど、であったが、仙女であれば……」
褒姫は陸睦に引き上げられたところだった。
斬られたせいで、見え隠れする腕と足を見る。布で隠してはいるが、押さえつけられたような痣がある。両手首と、首と、足には鬱血したために擦れた傷まで。趙での虐めにより、天武にも覚えがある。あれは押さえつけられ、力辱でしかできない傷だ。
山賊にでも襲われたか。山越えの危険さを知らぬのか。
せめてもの手向けに、顔を向けてやった。化粧をし、美しい為りだが、崩れている。
「斉梁諱? 知らぬ名だ」
聞いた瞬間、瞳は光をなくして行った。
「あうー……あァっ」
何かを言おうとしても、あ、あとしか言えず、喉を押さえ、頽れた。
兵がすぐさま舞子と遥媛公主を捕縛した前で、天武は剣を振り上げた。
「その口きけぬ宮妓を咸陽から放り出せ。遥媛公主、すぐには殺さぬから安心しろ。遥媛の官位を取り上げ、永巷へ繋げよ! 南の宮殿はいずれ廃墟となろう。女官・宦官はすべて処刑せよ」
言いながら、池に浮かんだ溺死の群れを睨んだ。
口を開け、死体は池に浮いている。花芯の言う、華毒は本物だったのだ。
池を掬い、濡れた手を見つめる。
これで、白起への継承が行える。手を下さなかった事実を、光栄に思え。古兵よ。
今までよく、働いてくれた。時代はおまえたちを必要とはしない。
(仙人は確かにおる。これはよい証拠となった)
天武は倒れた庚氏の手を握りしめ、手を下腹に当てた。何という元気な子供だ。力強く脈を打っている。必ずや、生かしてやろう。
「天武さま、今、治癒のために方士が向かっているそうです。天武さま?」
何故か、天武の脳裏には楚で焼け死んだ子供王が浮かんでは消えていた。
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