斉の桃花扇――遥媛公主の最期
7
香桜はすべてを見届け、痛む頬を押さえ、咸陽の正門に移動した。しかもすれ違った翠蝶華に叩かれるというおまけつきだ。
(俺が作った酒池に華毒放り込んだ? まったく、恐れ入る)
「おら! もう来るなよ!」
眼の前で、べしゃ! と女が放り捨てられていく。
「後は、俺が引き受けよう。狼藉を働かぬよう、遠くに連れてゆく」
「軍師さま! 感謝します! さァ、武勲を上げねば! 邪魔なおっさんたちはいなくなった! ひゃっっほぅ! 殷徳妃、天武さま、万歳!」
兵は軍師の香桜に頭を下げ、大慌てで、意気揚々と戻って行った。
華毒により、大幅に古兵が死んだ事実は、今後の秦を大きく変えるはずだ。いよいよ眼の前に趙への大戦が迫っているのを感じる。同時に、系譜の蠢きも。
「褒姫、行こうか」
絶望を抱えた褒姫の動かない腕を引き、抱き上げた。咸陽には夜の帳が降りている。
だが、褒姫には永遠の夜が待っている。
夜空を見上げた瞳には、星屑は映っていない。
――綺麗な夜空も、関係なしか。
夜を跳んで走り、やがて、ゆっくりと歩いて、咸陽を抜け、秦の長城に足を踏み入れた。
「褒姫、きみは夫と同じ死に方を望んでいたね」
何もなくなった荒れ地にそっと下ろすと、褒姫は瞳に、透明の涙を浮かばせる。
無言で周辺を見回して、宙に瞳を泳がせた。
腕を引いて、口唇に口唇を重ねた。
「ねえ、褒姫。華仙界っていう場所があってね。地上で死んだ魂が、時間を掛けて、花に成り代わるらしいんだ。そうだな、斉梁諱なら、なんの花だろう? さあ、眼を閉じて、空を見上げていればいいよ。美しい月夜だから」
月夜に天剣が舞う。褒姫の白い項には、いくつもの引っかき傷が見えた。すべての傷は、姫傑が与えたものだ。
(きみと斉梁諱の死は、存在は、姫傑のために在った)
褒姫はさらさらと光る砂になり、天に昇って行った。頭上の天の河は天河の如く、雄大に空を流れている。大きな時代の流れの中に、褒姫も、吸い込まれて行った。
夜風に天帝香桜の髪が戦いで、ゆっくりと肩に下りた。
――いつか、闇に消えた斉梁諱を探してやろう。そなただけでも、斉梁諱が生きていたと忘れてはならぬ。命は花になり、いつしかまた、力を得るのだから――。
鎮魂の音色は嫌いだ。緩やかな曲がいい。香桜の天上の音が、夜を駆け抜けた。
「居心地はどうだ、仙女」
永巷の暗黒の中で、薄い茶の瞳が持ち上がり、ふぁさと羽衣の擦れる音が響く。事情が事情だ、天武は一人で遥媛に向かい合っている。
遥媛は貴妃服を剥がされ、粗末な一枚の布を与えられていた。
結われた髪は切られ、無残な長さで肩に揺れている。貴妃の品位は、一つも損なわれていなかった。
「そなたは、やはり地獄を往くのだな。褒姫と一緒に、遥姫も消えたわ。やれやれ、そなたの相手は、いささか疲れる。庚氏の腹の子は無事だったようだな」
「ああ。安静にさせている。華毒とは、恐ろしいものだ」
遥媛は足を伸ばし、ふふと笑った。
「結果的に、花芯に助けられたとは皮肉な。さて、我が斉の面影を抱いて散って見せようぞ」
天武は無言で背中を向けた。
聞きたい事項は、たくさんある。眼の前の女は仙女だ。だが、仙女とは? 仙人とは?
暖かかった、遥媛公主。
牢に手を掛け、遥媛は微笑んだ。
「弔いなど、要らぬ。忘れなければ、存在した証は大切なものに宿る。さすれば、生と死は同じだと、理解できるであろ? おやおや。もう私は安らがせてはやれぬと言うに」
遥媛は困惑しながら、声を掛けてきた。見えているのか、頬の涙が。
眼を瞑り、振り向いた。震える指で、長剣を引き抜く。
牢の隙間を目がけて、漢の剣妓で刺し貫いた。
牢の向こうで、遥媛公主が剣を押さえ、微笑んだ。牢の壁に躯を滑らせ、倒れる音が響く。肉体は砂流のように砕け散った。
「仙女のくせに、なんとあっさり死ぬのだ。蜂でも、もっと苦しむぞ」
意地を張れば、辿り着くのは地獄だぞ。
あの時の遥媛公主は口角を極限まで吊り上げて意地悪に言った。
だが、今となれば、最後の言葉があったはずだと信じている。
〝一緒に地獄へ行ってやろうか〟
ふと、足元に火蜥蜴が這っているのに気がついた。だが、殺生はしなかった。蜥蜴は、しばらく天武の足元を這い回り、やがて、消えた。
*
「跡形もなく燃やせ」
天武自らの指示は絶対だ。咸陽の南の宮殿を取り囲んだまま、兵が松明を掲げている。
その夜、殷徳の酒池は幻の如く消え、多数の骸が庭に打ち上げられた。
天武はすべてを遥媛公主の宮に擲てと命じ、数多くの松明を将に持たせ、宮殿を封鎖させた。人っ子一人、鼠一匹たりとも出られぬようにして、宮殿に火を放つ。
松明を持った秦の兵は皆、魏と燕の少年たちだ。古兵で唯一人だけ残った武大師は、咸陽から姿を消していた。秦の兵は、汚れ仕事ができない。率先して、魏の少年たちは天武により従った。
「見事な炎! なんて綺麗!」
花芯は咸陽の山から、宮殿が燃える光景を見つめていた。
「天武さま、お役に立てたようですわね。うふふ。わたし、あの火棘女、大嫌い。そう、燃やしてくださったの」
呟きは誰にも知られず、赤々と燃える南の空に向けられて行った。
皇宮を取り巻いた火棘も、ようやく燃え落ちた。
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