斉の桃花扇――翠の蝶と、淑女の舞
*
華やかさに一役買う宮妓たちは、宴があると集められ、朝からめかし込みに追われている。香桜が褒姫を連れて、正門を潜ったとき、宮妓たちは、支度の最中だった。
普段、宮殿の南に住まいを貰っている翠蝶華を筆頭に、宮妓、家妓、営妓、官妓、民妓数多の彩り役が勢揃いしている様は、花が咲いたかのように鮮やかだ。
(軍師より、こっちのほうが楽しめる。宴会は、まこと華やかで、いい)
文化を振興せよとの天武の命令で、香桜は、軍師の傍ら、東方の貿易や、芸術育成にも携わっていた。人遣い、いいや、天帝遣いが荒すぎる。だが、お祭りは大好きだ。
楽しい行事を考えるのと、策略を考えるのは、香桜にとっては同じ意味だ。
――さて、翠蝶華は、と見れば姿がない。馴染みの宮妓が答えた。
「翠蝶華さまなら、房にいらっしゃいます。いくら呼んでも来てくれないので、皆でどうしようかと、相談しておりました。殷徳さまのお呼びに、参上しないわけには行きません。庚氏さまの懐妊祝いに、宴を立ち上げたのは殷徳さまですから」
(妙な話だな)と香桜は首を捻った。殷徳と庚氏は犬猿の仲。殷徳妃が、庚氏の懐妊を祝う? それは、香桜が天武を尊敬する奇跡くらい有り得ない。
褒姫は初めて見る皇宮の煌びやかさに声を失っているようだった。
香桜は少し恥じらった状態の褒姫の肩を押した。
天武に話を聞くためと言いつつ、本心は違う事情は、とっくに見抜いている。
褒姫は、あろうことか、斉梁諱の仇を取ると豪語した。
ちょうど咸陽は、庚氏の懐妊騒ぎで、少し浮かれている。冷水をぶっかけるには、いい機会だ。
褒姫が驚きで周辺を見回す姿は、愛猫。香桜が思慮に耽りかけたところで、賑やかな宮妓たちが群がった。
「まあ、素敵な釵、見て」
俯き加減で香桜の傍に寄り添った褒姫に宮妓たちが寄ってたかって、釵を褒め始めた。
「咸陽には見ない装飾。とってもお似合いですわ」
褒姫の目に困惑の光が浮かんだ。ぺちゃくちゃ喋る宮妓たちを窘め、香桜は頭を掻いた。
「さて、困ったな。きみをお願いしようとした翠蝶が閉じこもっているとは。翠蝶華の舞が一番やりやすいと思ったのだが」
褒姫がゆっくりと顔を上げた。震える手で斉梁諱の剣を包んだ朱唇色の包みをぎゅっと抱く。
柱には龍が絡まるような彫刻がなされ、天井には漆で塗り込めた鳳凰と龍の絡み合うさまが描かれている。
褒姫はおずおずと香桜を見上げて、不安そうに瞳を揺るがせた。そうだと香桜が手を拳にし、叩く。
「おまえたち、劉剥がいると、ひとしきり、翠蝶の部屋の前で騒いでおいで」
宮妓の何人かに微笑んで、待つこと数分。
やがて、むっつりと頬を膨らませた単純な翠蝶華が姿を現し、香桜の企みを見抜いて、苦虫を噛み潰したような表情になった。
「嘘ばっかり。本気にしたじゃありませんの。少しやりかたが、あざといのでは?」
「この娘を剣舞に入れてやりたいんだ」
「は? まさか、そのために、あのような騒ぎを」
翠蝶華は乱れた髪を掻き上げ、褒姫を見下ろした。翠蝶華は背が高い。天武より少し低いくらいで、劉剥よりも背丈がある。
「あら、可愛らしい剣ね。ちょっと見せてくださる?」
赤が好きな翠蝶華は、褒姫の抱えた朱の絹を巻いた剣がお気に召したらしい。
褒姫はずっと無言を貫いている。下手に喋れば企みがばれてしまうと危惧し。斉梁諱の妻たる女らしく、賢い。
準備のできた宮妓から一人、また二人と、皇宮を出て行く。三人だけになって、香桜は翠蝶華の腕を掴み上げた。むかっと膨らんだ頬を横目で見ながら、告げた。
「この娘は、天武に夫を殺された。一度だけ、敵討ちをさせてやろうと思ってね。天武を呼び出して欲しいんだ」
翠蝶華は、想像した通りの顔になった。
「何故に、あたしが! 敵討ち、そう莫迦な行動は、お止めなさい。あの男は死にませんわ。蝗虫のような男ですもの! そのくせ、あんな」
蝗虫とは、恐れ入る。天下の秦の王をここまで虚仮にできる度胸は素晴らしい。
翠蝶華は、はふ、と小さく呼吸をし、褒姫を誘った。
「いいわ。香桜には借りがありますの。でも、そう容易くは行かなくてよ」
「覚悟しております」
ようやく褒姫が喋った。
「夫を死なせた理由だけ私は知りたいのです。どうして、夫が死ぬ必要があったのかあるいは、死ななければならなかったのかを、知りたい。一度だけでいいのです。秦の王に逢いたいのです」
翠蝶華は考え込み、残念そうに呟いた。
「でも、天武の宮殿には、そう簡単には入れませんの。いくら私でも、皇宮への出入りはできませんわ。香桜、正気ですの?」
「きみも、劉剥のために躯を売った。一番理解できるだろうよ」
「嫌な言い方するわ」
翠蝶華は聞くなり、頬を赤らめた。楚で、翠蝶華と天武は夜を共に過ごしている。翠蝶華の態度が豹変したのは、その直後からだ。
少しだけだが、悪態が減っている。先日も、大人しく遊侠の前で舞を披露していた。
香桜は褒姫を翠蝶華に預け、背中を向けた。
「あのっ」
褒姫は追ってきた。足を止めると、一定の距離で褒姫の足も止まる。
香桜は歩み寄ると、褒姫に囁いた。優しい声音に、褒姫の瞳が僅かにたじろぎ、混迷する。
「俺ができるのは、ここまで。まあ、やらずに後悔するより、やって後悔しろってね。姫傑が身を以て証明した。力辱を許したのは、姫傑だから。違う?」
褒姫は首を振った。
頭に、折扇が飛んできた。
「そのくらいにしたらどうなの? 行きましょう。私もあの男、嫌い。誰かが片付けてくれるのを願う一人よ」
想いを寄せる相手にこうも言われる天武に、同情の余地はない。それにしても、こういうときの翠蝶華は頼もしい。半ば浮き浮きして、香桜は問う。
「どうするつもりだ。皇宮に入り込むのは、難しい」
「わたしの舞に混じらせて、暗転の時を狙うわ。機会は一回。いいわね? あたしももう一発くらい叩かないと、気が済まない」
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