斉の桃花扇――脳裏の疑問
庚氏はしばし天武の前で、言葉を選んでいるようだ。
天武は庚氏がずっと押さえている下腹に、ふと眼をやった。
視線に気付いた庚氏が眼を細め、笑いを漏らす。
〝屈辱の中で、貴方との愛だけが頼りでした。天武は、獣の体位を強いてきました〟
庚氏の書簡は悪意に満ちていた。思い出して、撃沈して、何も言えなくなった。
天武は顔を背け、無言のまま、更に背中を向ける。背中にそっと弱い腕が乗せられ、次に暖かい頬が押しつけられた。
腕を回し、頬をすり寄せた庚氏の姿は見えない。手が天武の下腹を撫で回す。
自身の分身に指が這った。
「今は、夜ではない。子を宿した躯だ。自愛せよ」
ようやくそれだけ言って、腕を振り払う。庚氏は笑いを漏らした。
「まあ、私の手を振り払うのは、花芯妃のせいかしら? それとも、お気に入りの宮妓のためかしら?」
更に言葉を失った天武に畳み掛け、庚氏は笑いを堪え、囁き続けた。
「それとも、牛のような肉体? いいえ、火棘のような、しっとり美人の遥媛公主のせいかしら?」
「やめぬか。謀りばかり申すか」
「まあ。私のお気に入りの女性たちの名前を呼んではいけないの?」
また庚氏の術中に嵌っていた。そもそも、話は違ったはずだ。
(この女、やはり油断できぬわ!)
「香桜と遥媛公主の話は、どうした」
再び庚氏が天武の背中にひっついた。背中で、少し寂しそうな声が響いた。
「わざとつまらぬ会話で、心を落ち着けておりましたの。天武さま、私は楚の女ですわ。楚には、仙人がおりました。仙人は妙薬を作り、たちどころに難病を治してしまったり、そうね、山を凍らせて遊牧民族を皆殺しにしたりできますの。おかしいと思いませんの?」
今更の淑女気取りか。庚氏は楚々と扇で口元を隠し、天武の傍に寄り添う。
「その話と、香桜と遥媛公主が、どう繋がる」
まあ、と庚氏は小さく叫び、眼力を強めて天武を見やった。細く濾しのない睫が、ゆっくりと揺れ、直毛の髪が一筋、肩にこぼれ落ちた。
「私は女でありますゆえ、気付くのですわ。遥媛公主の美しさは異常です。それに、私、はっきり見ましたの。遥媛公主は空を舞うのですわ」
「つまり、二人が仙人だという戯け話か。書簡に小話でも書いていれば良い。企みなど忘れ、大人しくな!」
「では、貴方は隣で不要の宮殿を、しこしこといくつもお作りになれば宜しいわ」
平行線の会話は翠蝶華で鍛えられたが、庚氏の厭味は隅々まで悪意に満ちている。
天武は話にならないと、頭(かぶり)を振った。
自分は消えてなくなれと、願っていた時期もある。趙の王族の子供は、天武を丸裸にし、火をつけ、石を投げて、笑い転げていた。唇を噛み締めた。
いつしか、攻撃的な感情は薄れ、代わりに縋り付く対処法を覚えてしまった。
「まあ、子供のような瞳を。王が聞いて呆れます」
言葉とは裏腹に、庚氏の手が天武の手に重ねられたその時、皇宮を男が走って来て、膝をついた。
「庚氏妃、並びに王天武さま。北の燕宮殿の殷徳さまがお祝いの宴を催すと。魏と燕の民が集まっておられますが」
「何? 祝いの宴? そんなものは、取りやめよ」
「あら、素敵じゃありませんか。ほほ、あの牝牛も、ようやく私に跪く覚悟ができたようね。大いに愉しみましょう」
冗談ではない。天武は眼を吊り上げた。
「そんな暇があるか。大体、私にとっては祝いでも何でもない。そんな無駄に関わっている暇があるなら」
庚氏の怒りが滾る瞳に囚われる。何という、瞳。悲しい宇宙と同じ色に見える。
意地を張れば、辿り着くのは地獄だぞ。
遥媛公主の声が再び天武に鮮やかに甦ってくる。何かの予兆のようだった。
ところで、夜の遥媛公主の姿を不意に思い出した。
浮いていなかったか?
いや、莫迦なと脳裏の疑問を打ち消したところで、朝議の知らせが舞い込んだ。
天武は庚氏との話を中断して、皇宮の会議室へ向かった。背中越しに庚氏は嬉しそうに笑っていた。何を考えているのか、全く以て読めやしない。殷徳の元へ行くのを拒否する理由は、見つかりそうになかった。
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