斉の桃花扇――二人の心の声
長城の残骸が、至る所に見受けられる荒屋で、男が泣く姿はあまり見たくないなと香桜の呟きが、空しく長城に響いて消えた。
「姫傑と言ったか。いい加減に顔を上げてくれ。夫人が困っているのが忍びない」
犯された女がしゃんと背筋を伸ばし、犯した男がわんわんと泣いている。
(くそ、またしても見逃したか!)
親友の妻をどんな風に抱いた。夫人は、これまた艶のある、人妻と来ている。人妻は略奪愛に限る。天帝の住まいの天壇でなら、権限で、水鏡に時を戻し、じっくりと蛇酒を片手に見ることができるのに、地上では手段がないな……。
脳裏で、遥媛が拳を振り上げている。
――情事を見逃し、悔しがる暇はないのだった。
夫人の手が何度も、泣き潰れた男の背中をさすっている。
「すみません。この方、感情が爆発すると、落ち着くまで時間が掛かるのです」
ほろりと、両眼から涙がこぼれ落ちる。男の涙はどうでもいい、女の涙はいただけない。
「おい、いつまで泣いている。泣くくらいなら、無理矢理の行為なぞ、しなければいい。やるだけやっておいて、泣き落としか。趙の太子が、聞いて呆れる」
ようやく男が顔を上げた。洟水に涎、眼は充血し、色男が台無しの風体だ。
ずびびと洟を啜り、姫傑は、がばりと夫人に平伏した。
「すまねえ! 褒姫!」
褒姫と言うのか。可愛い名前だ。
香桜はしばし見守り、特に褒姫を堪能した。あの朴念仁の斉梁諱には勿体ないほどの女だ。しっとりとした木陰のような麗しさがある。
見ていると、褒姫は涙目で告げた。
「姫傑さま。私たちは夫婦ですわ。夫が軍人な以上、悲劇は避けられないと日々覚悟して生きておりましたの。夫の遺品を探します。お付き合いくださいませね」
なんというしっかり者だ。対して、男の情けない姿。大型狗の如く、姫傑は褒姫に頷き、のそりと動き始めた。
先ほどの龍の攻防で、長城はおろか、死体や砂までもが吹き飛んでいる。意志があるかの如く、斉梁諱の腕だけは残っていた。
褒姫はそっと腕を掴んだが、すぐに土を掘り始める。
ようやく姫傑も手を出し始め、二人は靜かに弔いを始めた。
荒れ地を歩き回り、姫傑が一つ、玉を見つけた。一番大切に身につけていた玉だと気付いた褒姫が強く胸に押しつけて、涙を零した。
「まあでは、夫が宿っているかも知れませんね。神様はいるのですわ」
香桜はこちらを窺っている姫傑と視線が合った。
天武よりも龍気は薄い。では何故、白龍公主と貴人は力を貸した? 俺への嫌がらせか?
斉梁諱の欠片を見つける度に、褒姫の笑顔と涙が行き来をした。
哀しみと嬉しさは表裏一体だ。哀しみが終われば、いつかきっと、嬉しかった感情が凌駕する。仙人はそれを知っている。
耐えるしかないのではなく、耐えていればいつか。絶望もいつかは終わる理を。
二人は一言、二言を交わし合いながら、斉梁諱の遺品を集めて行く。
預かっていた長剣は褒姫が大切に抱えていた。
腰を上げ、香桜は笛を一奏した。鎮魂の歌に大地が揺れる。ところどころにポウと光が宿り、褒姫の廻りで風が吹き、ふっと空に駆け上った。
褒姫が涙目で空を見上げている前で、遠い異国の旋律が流れゆく。涙を流し、褒姫はただ、宙を見つめていた。
姫傑も靜かに空を見上げている。桜桃の葉が渦となり、空に吸い込まれて行く。まるで何かを連れ去るように、春風が長城の跡地を吹き抜ける。
緩やかな風に髪を戦がせ、香桜は笛から唇を離し、眼を細めた。
「斉梁諱は、まれに見る好い男だった。天武に相手にされずとも、必死で生きていた。最期まで太子であったよ。そなたらは、どうするつもりだ」
二人は顔を見合わせ、姫傑が答えた。
「趙に連れゆくつもりだが」
「趙に? 姫傑。褒姫に真実を告げるべきだ。知っている。秦の王を」
「秦の王? ええと、軍師さま、それは夫は秦の王に逆らったせいで、殺されたのですか」
真実は違うが、香桜には一つの考えが浮かんでいた。
姫傑。この男、まだまだ覚悟ができていない。趙と秦は、ど派手にぶつかる必要がある。だが、姫傑には自覚が足りない。最強の殷王朝の名を継いだにしては、虚けすぎる。こんな莫迦な遺伝子を残したつもりはない。香桜は即時行動に出た。
「そうだ。斉梁諱は天武に逆らい、流刑になった。性懲りもなく、長城にて反乱を起こし、秦に殺された。真実だ」
褒姫の目が、ぎょろりと開く。
「天武、とは」
代わりに姫傑が忌々しそうに答えた。
「残虐で知られる、秦の王の偽の名前さ! おい、あんまり褒姫を焚きつけないでくんねえかな。気丈な女だ。俺はとっとと」
「腰抜けた太子に用はないんだよ」
間の抜けた声を出した姫傑は、この際、蚊帳の外でいい。褒姫は、胸の斉梁諱の剣を強く握り締めていたが、やがて顔を上げた。
「私に、帰る場所は、もはや何処にもありません。秦の王。是非お会いして、夫の無礼を詫びなければなりません」
「褒姫! 莫迦なことはやめるんだ!」
褒姫の顔から笑みが消えた。つんと冷たい言い方に、姫傑が言葉を失っている。
(女の本気に火をつけたな。さあ、褒姫よ。決意したであろう)
「莫迦ですって? いいえ、私には、斉の太子であり、将軍であった梁諱の妻という誇りがあるわ。決して夫が死のうが、変わりません。私が誇りを捨てるわけには参りません。そうでないと、愛した記憶も、嘘になります」
――よくぞ言った。拍手だ。
香桜は浮き浮きとしながら、次の一言を待った。
やがて褒姫は一度だけ、斉梁諱の名を呼び、香桜に向いた。
「私を咸陽にお連れください。夫の無礼を詫び、差し違えても、秦の王を!」
姫傑は、無言から、急に笑い出した。信じられない冷酷な態度だ。
「姫傑さま? どうしました?」
姫傑は笑いながら、手酷く褒姫の手を引き、有無を言わせず、激しい口づけを仕掛ける。
抱かれたばかりの体を甘く震わせる褒姫を姫傑は軽く突き飛ばした。
「ふはははは。バッカな女だぜ。俺ぁ最初っから凌辱が目的だったんだってのによ。おまえ、俺に滅茶滅茶感じてたろ? ふん、まだ足りないって? 悪いな。俺、一回して満足しちまったから、別に望みを果たした以上は、用はねえ――どこへでも行っちまえ」
つかつかつか。そんな音を立てて、褒姫が歩み寄ったかと思うと、上げた左手を捻り上げ、姫傑は嘲笑った。しかし、嘲り笑うと、この男、凶悪な表情の天武に似ている……。
「んーだよ。男なんて、そんなもんだぜ、淫乱女! とっとと秦の王に殺されちまえ! それとも貴妃になって、アンアン言うかよ。あんた、すっげえ好きだもんなァ」
ぐっと褒姫の口元が閉じられ、大粒の涙を流して見せた。
香桜には分かっている。
これは、別れだ。手酷く言って、姫傑は褒姫を突き放した。望みを叶えさせてやりたい姫傑は、自分の心を滅茶苦茶にする行動で、償う気なのだ。
未練など残したくない。どうあっても褒姫の心は手に入らない。姫傑の血塗れの慟哭は香桜にも聞こえていた。
――褒姫、幸せに。最期まで斉梁諱の妻として生きたいなら、俺は止めやしねえよ。
やがて、ぱん! と頬を打つ音がし、褒姫はくるりと背中を向けた。
「見損ないました。二度と姿を見せないで」
涙を堪え、褒姫は震える声を奮い立たせ、続けた。
「ここまでで充分。あなたをこれ以上、私は愛せません」
「そうかよ。勝手にしな」
姫傑の声も掠れ、震えていた。二人は背中を向け合った。
――さようなら、姫傑さま。
――さようなら、俺の愛する姫、褒姫……。
同時に聞こえた二人の心の声は混じり合い、香桜に響く。
「貴方には、こんな場所にいて欲しくありません。太子のお役目を全うしなさい。趙にも、待つ人はいるでしょう」
何という言葉を失うほどの、褒姫の斉梁諱への愛、姫傑の褒姫への愛。
姫傑は頬を腫らして、空を睨んだ。
銀色に染まった雲は、どこまでも薄く伸び、裏側に隠れている騰蛇の光のせいで、淡く輝いて青空に色を落としている。
輝く空の下で、姫傑はきっぱりと告げた。
「褒姫! 俺は趙でおまえを待つ! 戻って趙の軍を引っさげ、必ず迎えに来てやる。そん時は、もっと嬉しそうに抱かれやがれ!」
褒姫が涙目で振り向いたが、姫傑は白馬の元に走り去り、二度と振り向かなかった。
「なんという、元気な男だ」
「夜通し、馬を走らせ、洞窟を突破する方ですわ。改めて。斉梁諱が妻、褒姫と申します」
「香桜。軍師の称号を貰っている」
褒姫は頷いて、斉梁諱の剣を貴妃服の帯に指し、甘えを捨てたような声音で告げた。
「咸陽へ向かいましょう。秦の王に、話を聞かねばなりません」
天武は女相手だろうが、遠慮などしないと、香桜は褒姫に言うのを止めた。
先程の男の笑顔は、途轍もなく天武に似ていた。
(天帝の俺にも、分からぬ謎が多すぎる)
褒姫は、それからしばらく地に立ち、周辺を見渡していた。切り立った山を視界に望み、何を思っているのか。
柔らかな髪を解く。長く揺れた少し焼けた髪は、不安そうに揺れている。
「梁諱そっちへ行くのは、少しばかり、遅くなりそうです」
微笑みを滲ませた小さな呟きが、空に吸い込まれて行った。
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