斉の桃花扇――庚氏の両眼

       3

「長城が崩壊した? そんなはずはなかろう! どんな戯けを申すかと思えば」


 早朝、咸陽承后殿。皇宮。不機嫌な秦の王、愁天武の声が皇宮の回廊に響いている。


「冗談は、笑えるもので頼む。版築した長城が、そうそう崩れるものか。李逵、私は至極機嫌が良くないぞ」


 天武は就寝時に解いたままの黒髪を縛り上げ、肩に上着を羽織った。

 春だというのに、この冷え込みは何事かと外を見やり、踵を返したが、また回廊に戻った。

 ここは皇宮の二階に当たる。むろん、階段はない。少しずつ螺旋の如く高さを重ねた巻き貝のような構造の皇宮には仕掛けがいくつもある。

 その内の一つが、天武の寝所への道だ。

 ささくれ立たせた上に、隠し通路がある。侵入者が入れば、間違いなく迷い、外を拝めずに落下する。落下箇所は、養豚場所。潰れた人間を豚が美味そうに平らげてくれる。大鼠が入ったという庚氏の言葉には疑問があるが、口々に女官や宦官も怯えていたから、間違いはない。それにしても。


(やけに冷え込んでいるな。寒いのは苦手だというに)


「李逵、暦は花朝節よな? さては、天空から氷でも落とされたか」

「すぐに原因を調査します。確かに、これでは冬の風です。天武さま、どうか部屋に」


「うん? ああ、構わない。楚を思い出す。あれを見たのは、花芯だったか」


 目の端に積まれた書簡の荷車が映った。


「うっとりしている前で、書簡の山を見せるな。気分が落ち込むわ!」

「すぐに片付けを! 引きなさい」


 李逵は皇宮事務の長だ。荷車はすぐに部屋に引っ込んだ。


「もうしわけございません。どうぞ、外をご堪能遊ばしますよう」

「もう良いわ。仕事に移ろう」


 妻と仲違いが終わった李逵は、皇宮の外にある自宅から早朝に駆けつけ、仕事をこなしている。しかし大抵の場合、天武は起きている。常に仕事を抱え、眼のクマは常に鎮座するようになった。


 季節が巡っても、決まらない白起の継承式。庚氏の懐妊騒ぎに乗じた、貴族たちの要らぬ貢ぎ物の選別に、暗殺傀儡の排除。相変わらず狙われる自分の身。更に軽蔑しきっている翠蝶華の態度。陵墓の囚人の死、皇宮でまた始まった貴妃の自害や頓死。


 ――これ以上の問題は要らぬわ。長城が崩れた? ふざけおって。


 怒りが最高地点に達して、長剣で床を叩き、天武は一喝した。上着を翻し、長い腕を伸ばすと、溌剌としつつも、どこか冷め切った声を張り上げた。


「即刻、長城を作り直せ! 陵墓の建設地におる囚人を全員、余さず向かわせよ。月氏が入り込んで来れば、この咸陽は終わろうぞ。趙への進軍前に面倒事は要らぬ!」


 言い終わってはたと気付く。


「李逵。長城の罪人たちは全員が死んだのか? その」


 人夫に命じた李劉剥の行方が気がかりだ。ただでさえ、翠蝶華は庚氏との懐妊騒ぎから腹を立てている。この上、劉剥が消えたとなれば、翠蝶華の嫌悪はもっと激しくなる。


(翠蝶華か。これ以上の冷戦は嫌だな)と呟いて、「おい、待て」と言い聞かせた。

 なんだ、この体たらく。脳裏で翠蝶華が、ふふんと鼻を高くして見せる。


「天武さま? もしや、気分でもお悪いのですか?」


 李逵の言葉に、むっと眉を吊り上げ、天武は口元を押さえて考え込んだ。そこで、この癖はまるで花芯だと気付いて、短気に爪先を鳴らした。

 冬風が桃葉を飛ばしている。どこからやって来るのか、皇宮にも時折ひらひら花が舞い込む。天武は眼を開き、再び沙汰を下した。


「李逵、長城の官吏を集めよ。先日、申しつけたばかりの李劉剥を即刻、これへ呼び戻せ」


「それが」


 言いづらそうに、李逵は口篭もった。普段、内向的な李逵が口篭もると、更に苛々する。


「そなたは、妻にもそんな態度だから、尻に敷かれるのだ。優男にも程があるぞ」


 うっと図星な言葉に詰まった李逵は、おずおずと告げた。

 李逵は、報告を違えない。天武の絶大な信頼は、ここにある。


「恐れながら……」


 ほら、来た。


「長城は」


 しばし時が止まったように、李逵の言葉を受け止めた。異変に気付いた将が、早くに確認に向かったとの報告だ。

 だが、問題はそんな部分ではなかった。天武は繰り返す。


「一人も見当たらない、だと? 莫迦を言え。二千人は投入……。それに斉梁諱もいたはず」


「恐れず申し上げます。長城の上空には龍が見えた、とそれに、少し前には、斉の太子による決起の動きも出ていたようです」


 天武は両眼をギロリと李逵に向けた。庚氏の言う「まあ、素敵なお竜顔」は恐らく今の表情かと気づき愕然とする。

 斉梁諱が反乱を企てていたとなれば、斉という一つの国が終わる兆しに他ならない。故郷である遥媛公主にも辛い事柄になると容易に想像がついていたからこそ、斉梁諱を見逃した。 


 斉の太子が反乱を企てているとすれば、当然、謀反。狙いは、ただ一つ。


 ――妹の遥媛公主の奪回!


「遥媛公主の宮を封鎖せよ。斉梁諱の狙いは、遥媛公主に繋がるやも知れぬ。遥媛公主の廻りの女官・宦官は、すべて牢屋に放り込め。拷問に掛け、吐き出させよ」


「それは、早計でございますわよ、我が夫」


 ふと、女の声がして、天武は振り向いた。庚氏だ。

 性懲りもなく、道筋のばれた寝室に入り込んでくる。正妃気取りなのか、天武と同じような上着を羽織っている。時には、しゃあしゃあと夜に現れる機会も多くなった。


「まあ、蟲でもお食べになりましたの? ほほ、素晴らしいお竜顔。長城の噂は、我が宮殿にも聞こえておりました。玩具の土壁が崩れたくらいで大慌てするなんて、秦の王は可愛らしゅうございますわ。私、一つ策を授けに参りましたわ」


「策だと? 女だてらに、軍師気取りか」


 厭味は取り合わず、庚氏は口元に笑みを称えた。


「夫を立てるのは、妻の役割ですわ。策略家の夫のほうが、私には合っているようですのよ。珠羽は今いち私について来られませんの。天武さま、いいえ、天武」


(ぬかせ!)と怒鳴りたいのを抑え、天武は庚氏の瞳を見る。美しい黒真珠のような、妖しい光の庚氏の瞳は恐ろしさを訴えていた。


「申して見よ」


 庚氏は、うっすらと笑い、続けた。


「仙人をお探しになってはいかがかしら?」


 莫迦らしい。時間を無駄にした。と怒りを噛み締め、待てよ? と思考をしばし止める。

 楚の凍る山それに、崋山に、突然現れた山、殷の仙人伝説に、趙の書物。常識では語りきれない事象が多すぎる。


「仙人は尋常ではない力を持ちますの。人間など、指先で殺せる上に、不老不死ですわ。天武さま、ずーっと生きられるとしたら、どうします? 死ねず、老いず、ずっと生きる。貴方さまは、目指すべきですわ」


 庚氏の言葉は、遥媛公主と同じ、ずしりと胸にのし掛かった。


 不老不死。永遠の生命。


(父の書簡の最期に書かれていた文字だ。最終的に王たる男が手に入れるモノは、永遠の栄華。未来に渡り、君臨する力!)


 天武は唾を飲み込み、庚氏に向けて顔を上げた。


「大した策だ。ここまで言ったからには、当然、方法を吟味しておるのであろうな?」


 庚氏は、ふふと笑い、天武の肩に手を置いた。


「時に天武さま、お耳に入れたいお話が」


「何? 申してよい。李逵! そなたは、この場を離れ、長城の調査に入れ。斉梁諱と李劉剥を連れて来るのだ。同時に、方士を集めよ。ただちに仙人の捜索を開始する。して、耳に入れたい話とは、何か」


 庚氏は、にっこりと笑った。


「典客、軍師の香桜と遥媛公主の話ですわ」


 庚氏の両眼は更に妖しく光る。正しく獲物を狙う鷹と同じ目付きであった。

 

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