斉の桃花扇――莫迦な男、愁美な女

    

 振り乱して揺れた前髪が、汗で張り付いている

 ゆっくりと褒姫から躯を離し、縮んだ自身を引き抜く。白濁した体液が溢れるのを、涙目で認め、すぐに何事もなかったかのような表情の褒姫の服の乱れを直し、身を整えた。


「もう、仕舞いか」


 にやにやと傍観していた貴人を渾身の力で睨み上げた。貴人は長城の上で成り行きを見ては、満足そうに笑う。姫傑は皮肉げに口にした。


「ああ、充分だ。やっぱり抱くなら、好きな女に限るなァ」


「ふふん? 随分じっくり味わっていたようだな。はは、さぞかし斉梁諱は口惜しい思いでおまえを見ているのだろうな。だが、肉体はおろか、魂まで喪った男に、悔しさを伝える手段など、ありはしないがな!」


 ぼんやりと眼を開けた褒姫をゆっくりと抱き寄せ、膝に抱いた。きょとんとした瞳に笑って見せて、頭を撫でながら、姫傑は口調を強くする。


「おあいにくだが、後悔なんぞしねぇぞ。この性懲りもねぇ躰は、褒姫をずっと狙ってやがったんだからな! それに、俺はこいつを愛してんだ。同じくらい、梁諱も愛してた。それよりもっと、褒姫は斉梁諱を愛してた。単に俺が奪っただけの話だ。下卑た仙人なんか、及びじゃねえんだよ! 理解できねえんだろ。俺は莫迦だが」


 褒姫の解けた髪を掬いながら。姫傑は唇を歪めて、敵なしの笑いを見せる。


「少なくとも、てめえよりは莫迦ではねえよ。貴人」


 貴人の唇が青ざめている。口端がかたかたと震え始めた。


 ――人間を謀ってんじゃねえぞ、仙人ども。


 貴人は髪を揺らし、琵琶を高く持ち上げて見せた。片眼は紅に染まり、逆光を浴びた影は、巨大な蛟になった。


「この、わたしをおまえたちと一緒にするなあっ!」


「へっ。そう来なくっちゃあなぁっ。この姫傑、ブッ倒せるならやって見ろよ!」


 貴人の背中に巨大な龍が現れた。


 ――あ、俺、死ぬかも。


 仙人に喧嘩を売る怖さを忘れていた。その時、気絶しているはずの褒姫の小さな手が、姫傑の布を巻いた手に触れた。


「姫傑、さま? だめです」


 錯乱の瞳は何処かへ消えている。う、と褒姫は小さく呻き、下腹を摩ってみせる。姫傑は龍から眼を離さずに、告げた。


「逃げも隠れもしねえよ。俺はあんたを抱いた。だが、俺は…」


 言葉が続かない。


(操られてやったんじゃねえ。奪いたかった。ずっと。貴人に揺り起こされたんだ)


 褒姫は衝撃を受けたのか、靜かに姫傑を見上げて、ほっそりとした手を頬に滑らせる。

 震える指先に、どうしようもならなくなり。顔を歪めた。

 平手か。そうだな、それが相応しい。罵倒しろ、莫迦な男を。

 だが、褒姫の掌は吸い付くようなしっとりさで、姫傑を撫でた。


「莫迦なお人……あなたは、莫迦ですよ」


 いつしか褒姫は正気を取り戻している。姫傑は充血した瞳で褒姫を見下ろした。


「陵辱した相手に、優しくなんか、すんな。覚えてねえんだろ」


 褒姫は、ようやく口にした。


「梁諱は、死んだのね」


 泣き喚くでもなく、ぽつりと呟いた。


(俺を罵倒すら、しねえんだ……) 


 なぜだと貴人の潰れた声が姫傑を呼び戻す。


「なぜ、そいつを許す! おまえ、その男は何度も何度も獣のように、貫いたぞ! 絶望であろう。おまえが泣き叫ばねば、あの男を苦しめられぬではないか! さあ、泣き喚け。まだまだ欲は膨れるぞ」


「ぐちゃぐちゃ、うるっせえんだよ」


 苛々と姫傑は言い返した。


「俺の欲は、俺が勝手に膨らませらぁ。欲っちゅーのは、愛情だ。俺は男だ。奪うことに躊躇などねえな!」


 棍を手に、姫傑は泣きそうになる。


「貴人、これが人間だ。死を覚悟して、愛するんだ。ボケ仙人。わかったら、とっとと俺を喰うなりしろよ。簡単にゃ殺されねえよ! 秦の趙政を倒すまではな!」


 褒姫が驚きで姫傑を見上げている。姫傑は手をしっかりと掴んで、頷いた。


「アァ? おまえに関わってる暇なんかねーんだよ。ばかでけー龍なんかモソモソ呼んでねえで、言ってみろよ? 俺が羨ましいってよ」


 貴人の顔はみるみる蒼白になった。


「誰が羨ましいか! 貴様は面白いからと生かしておけば!」


 姫傑は正面で向かい合った。気迫に貴人が、僅かにたじろぐ。

 褒姫はと言うと、長城に現れた蛟の残像を見上げているところだった。


「龍様がいらしたのも、何かのお導きでしょう。斉の人間は、龍を信じます。梁諱は死して、龍になったのです」


 手を繋ぎ、貴人の龍気を覚悟して、二人で見つめる。ああ、あんたと、この龍に潰されんのも悪くないな、なんて考えて眼を閉じようとした時、更に巨大な龍が迫ってくる光景が見えた。


 雲を光らせ、突き抜けて、現れた龍は、光を撒き散らして、龍の躯に噛みついた。

 貴人が口惜しそうに呟く。


「天龍……っ!」


 龍に煽られた風は、朽ちた長城をすべて吹き飛ばし、地は荒れ野に戻った。人々の骸は砂と化して、さらさらと流れて行く。

 気がつけば、貴人の姿は消えていた。

 流れた後には、腕だけが残った。


「受け取るがいいよ。そなたたちの大切な人のものだ。貴人の狼藉は俺が詫びよう」


 上滑りの声が響いて、二人の前に、音もなく、人影が降り立った。動けずにいる二人に笑って見せて、小脇に抱えていた剣を差し出した。


 赤い布が結ばれていた。



〝きみは棍を使え。わたしが剣で止めて見せよう〟


 海で、斉梁諱は笑っていた。


「きみたちに返すのがよさそうだ」


 梁諱の長剣だと気付いた姫傑は、引ったくるように手を伸ばした。梁諱の長剣を手にした瞬間、感情が堰を切って溢れ出した。


 我慢できなくて、褒姫を滅茶苦茶にした挙げ句、褒姫の梁諱への愛情は代わらず、姫傑に手にできないという現実、斉梁諱はもはやいないという虚しい現実が此処にある!


「うぁあああああああああああっ!」


 突っ伏して、泥に顔を突っ込んだ。



(誰か! 誰か俺を殺せ! 潰せ! 滅茶苦茶にしちまえ――っ!)



 姫傑はただ、自身を罵倒し、嘆き、叫んだ。

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