斉の桃花扇――残酷劇の幻想の痕に


 翌日も、お日さんは臍を曲げ、姿を現さない。褒姫は見つけた木イチゴを擂り潰し、染料を絞って紅代わりに口唇に塗り、姫傑は河に飛び込んで水を浴びると、すぐに出発した。

 いよいよ目的地。秦の長城が間もなく見えてくるはずだ。


「褒姫、大丈夫か」


 馬に褒姫を乗せ、姫傑は歩いている。愛憐と褒姫を思いやりながら、泥濘になった地に足を踏み入れた。やけにどろりとした土だ。二人を乗せて走らせるには、愛憐が耐えられそうになかった。

 姫傑は手綱を引いていたが、ぎくりと手を止めた。


 ――人の腕が転がっている……。


「褒姫、俺、腹が痛くなったんで、ちょっと、いいか」


 動悸を見破られぬよう、明るく言い、愛憐を自然な動きで元来た道に向けた。遠ざけた後で、用を済ませる振りで、長城の地に戻った。


 あちこちに人の一部分らしき残骸。原型を留めていないものが大半だ。


「こりゃ、酷いな」


 呟いて、姫傑はぎくりと肩を震わせた。岩の塊がこっちを見ていると思いきや、岩は動いて、すっくと立った。


「な、なんだ驚かせるんじゃねえよ」


 その向こうに褒姫の姿が見えて、狼狽した。姫傑の用足しが遅すぎると思い、迎えに来たのだ。


「褒姫! 来るんじゃねえよ!」


 腹から響く姫傑の怒号に、びく、と褒姫が足を止めた。聞いた男が「おや?」と褒姫と姫傑を交互に見やり、首を傾げた。


「もしや、斉のあの太子の妻とええと、おめぇは誰だ?」


 顔に大きな傷がある。眼は鋭い。身なりはそれなりに良いが、汚れすぎて台無しにされている。


「斉の太子を知ってんのか」


 男は頷いた。


「憐れな話だぜ。あまりに憐れなんで、戻って弔いでもしてやろうと思ったら、肉体どころか遺骨も見当たらない。逃げたか、壁に塗り込められでもしたか」


 背中に冷や汗が垂れた。心ノ臓が破裂しそうなほど、鼓動を打っている。

 姫傑は辺りを見回した。

 焼けたような長城の壁に、崩れかけた長城の瓦礫。見え隠れする大量の骸と、被さった泥に這い回る蜥蜴。蜥蜴は黒地に黄色の斑点をつけた毒蜥蜴だ。


「ここで何があった」

「俺も知らねえのよ。咸陽に向かった斉の太子は、粉々に吹き飛んだのかも知れねえな」


 男は「よっこらしょ」と立ち上がると、岩室に置いてあった剣を肩に背負い、ざくりと泥の中に足を突っ込んだ。


「あんた、斉の太子の知り合い?」


 言葉は耳に入らず、そんな呆けた姫傑の肩をぽんと叩くと、男はゆっくりと長城に歩み寄っていく。半壊した長城は廃墟を訴えていた。


 全身が震え始めた。いくら莫迦でも分かる。〝遺骨〟の言葉が何を指しているか。


「姫傑さま? 如何しました?」


 褒姫を抱き締めた。事情の分からない褒姫はただ、杏仁目を震わせて、なすがままになっている。


「ほ……うき……。梁諱……は」


 声が震えて、何も言えない。俺は弱い。梁諱、おまえの死すら、伝えられない!


「姫傑さま、貴方まで泣く必要はな」


 褒姫は姫傑の肩越しに、言葉を呑み込み、視線を止めている。

 気付いた姫傑が慌てて腕を引いたが、褒姫はふらりと泥濘を進み、がくりと膝をついて、それを持ち上げた。

 丸まった背中が哀しみに打ち震えている。震える指先を口元に当て、褒姫はそれに眼を釘付けにしていた。斉梁諱の、右腕が、そこにあった。既に固く、変色しているが、褒姫は見慣れた斉の鎧を見つけてしまった。


 篭手だ。将軍に許された鎖を埋め込んだ高級品は、嬉しそうにかつて外していたものだったのだ。狂ったように褒姫が土に手を突っ込み、泥を掻き出し始めた。


「褒姫! やめろ!」


 姫傑の声も届かないらしく、褒姫は一心不乱に土を掘り、必死で斉梁諱の欠片を探そうとした。


 見かねた男が、細い腕を掴み上げた。ひくっと褒姫の喉が痙攣した。


 眼の前で男は苛立たしさを滲ませ、低い声で言い放つ。


「アンタの夫は、もういねぇ! 俺だって探したんだ。腕だけ、何故か残ってた。頭部も、肉体も、服すら見あたらねえ! いい男だったぜ。あんたの名前を言う度に、優しい顔してよ……」


 褒姫は、顔を歪め、夫のものであった一部分を見つめている。状況を把握できてないのか、小さく梁諱の名を呼んだ。

 男は腕を放し、背中を向けた。特徴ある剣が鈍い光を返している。


「女を残して死ぬなんざ、莫迦だ。翠蝶華に恩を着せられるのも、むかつくぜ。俺は后戚を探すことにすらぁ。おい、あんちゃん、名前は。俺は漢の官吏の李劉剥だ」


「趙の王、姫傑。こっちは褒姫。共に、斉梁諱とは旧知の間柄……」


 声にならない。


(何故、こんな場所に、梁諱の腕が落ちているのか、俺だって把握できてねえんだ。褒姫)


 褒姫は、信じないと無言になった。喉を押さえて、喘ぎを吐き出す。言葉を出そうとして、赤子の如く声を発するだけだ。


 地面に手を叩きつけた。こんな行為をしている場合じゃない。褒姫を早く、一刻も早く遠ざけねば。だが、何でだ。躰が重くて動かない理由は。


(俺は、生きてろと言ったんだ!)


 干涸らびた海月を思い出す。何も知らずに逝った。

 有り得ない。腕が残っている? どんな無残な最期を……。

 琵琶の音がする。


 共鳴して、姫傑の胸元に忍ばせた貴人の龍眼が震動し、胸元を転がり落ちた。

 キロ、と目玉がまっすぐに姫傑に向き始め、姫傑は怯えている自分を知った。と、同時に、貴人の恐ろしい力を思い出した。


 白龍公主と同様、貴人は地に眠る恨みの蛇を起こす。どろどろに融けた怨念の蛇は、人をどろどろに封じ込め、やがて腐らせる。謂わば腐れ蛇だ。


 姫傑は、どうにかなりそうなほどの恐怖を感じて、吐き捨てた。


「俺を、見んな俺を責めるな! 責めんじゃねえ!」


 目玉は意志を持って、姫傑を睨み続けた。気が遠くなりそうだと思った瞬間、目玉が消えた。


 土の中から、少しずつ人型が浮かび上がって眼を覗かせた。蛟龍仙人貴人だ。


 抱き留めた褒姫がふっと意識を失った。眼の前で、貴人が高らかに笑い声を上げた。


「おまえがやった、のか……」


 貴人は長城に座ると、気だるげに首を捻った。


「系譜に不要な名前は淘汰するが我らの役目」

「うおおおおおおおおお!」


 言葉を遮る如く、姫傑の棍が舞った。ほう、と貴人の眼が細くなった。充血した眼が痛い。褒姫を抱き締めたまま、姫傑は怒りに任せて棍を振るった。


「鬱陶しい。靜かにしておれ」


 ビィンと不協和音が響いて、脳がズキンと痛む。姫傑の前で、貴人はにやりと笑った。


「おまえ、見ていたが、面白いな。あの眼を抉った男への報復とするか」


 何を言っているのかが分からないまま、姫傑は唇を噛みしめた。切れた弦を歯で繋ぎ、貴人は琵琶を奏でている。

 姫傑の眼が、気を失った褒姫に向いた。

 頬に指を這わせると唇が、もぞりと動いた。可愛らしい呼吸が、唇から漏れる。

 片眼を手で弾ませつつ、貴人が告げた。


「趙での無駄働きは、しっかりと返して貰おう、愛する妻を、信頼する友が、自身の死した後で奪う。あーはっははは。これ以上の仕返しはないな! 女は荊に囚われた。得てして人は、逃避する生き物だ。夫の死を認めたくないという感情に、手助けをしてやったまで。まあ、行く先は知れている」


 笑いながら、貴人は告げた。


「すべては、斉梁諱を恨むがいい! この蛟の眼を抉るなどいかなる理由があろうとも許さない。茶番は終わりだ。本気を出してやろう。遥媛に焼かれた屈辱も兼ねてな!」


 琵琶に導かれ、褒姫はゆっくりと眼を開けた。


「……あなた?」


 姫傑には見せた覚えのない、甘えたな表情に背中が甘く戦慄き、眼を瞑る。褒姫は構わず腕を伸ばしてくる。貴人は舌なめずりをした。まるで蛇だ。


「以前、失敗したからなァ。その女が欲しいのだろう? 激しく貫いたら、戻るかも知れぬぞ? そら。おまえの欲、次々湧いてくるわ。犯れ」


(莫迦野郎! か、躰がいうことを利かねぇっ)


 手が勝手に、褒姫の尻を撫で回す。貴人に膨らまされた欲は、勃ち上がり、まっすぐに褒姫に向かっている。褒姫が抱きついてくる。逆らえない。


 蛟の蛇が大きな口を開け、姫傑の心を食い始める。逆らえない。いや、逆らえないのは、自身の恋心に対してだ。


「あんたが好きだと俺は言った! 何かあったら褒姫を奪うと!」


 押さえつけ続けた愛欲が膨れ上がっていく。


 ――限界、だ……。


 姫傑は褒姫を抱き寄せ、あれほど願い続けた唇に触れた。

 それきり、意識は薄れ、錯乱した褒姫を、気がつくと何度も何度も揺らしていた。


 体奥を揺らされたまま、褒姫は、ぼんやりと、姫傑を純粋な眼で見上げている。

 もしかすると、夫と勘違いしているのかも知れなかった。


 そんな事由は、どうでもいい。


(あんたが夢でも、幸せなら、俺は遠慮なく、鬼畜になる。俺は莫迦だから自分の心に正直なだけだ。操られてなんかいねぇ)


 ただ、貴人の笑い声と一緒に、時間だけが過ぎていった。


         

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