斉の桃花扇――斉の若妻と趙の太子②

                  *


 夜明けを迎え、姫傑は褒姫を気遣いながら、再び馬を走らせた。

 肌寒い北の山道の四季折々の景観は、見事に花朝。色とりどりの花が咲き乱れている。

 斉の海ばかりを見ていた褒姫は、嬉しそうに景色を眺めている。

 途中、秦には入らずに、楚を通る道筋を選び、愛憐を休ませようと、手綱を引いた。

 秦の兵が至る所に立っている。


(俺は楚の国は知らない。寂しいものだな)


 楚の長城に差し掛かり、姫傑は馬を止めた。秦の兵に見つからないよう、源林に向かう。


「褒姫、ここを抜ければ、秦だ。咸陽なぞ通るのは、吐き気がするから、回り道をするが、いいか?」


 褒姫は頷いて、紅潮した頬を向けた。


「夫に会えましたら、私は置いてって結構ですよ。帰りは、梁諱の馬に乗りますから」


「はいはい。馬の上で脱がしたりすんなよ。凍死すっからなァ」


 褒姫を微笑ませる会話を心がけると、どうしても梁諱との明るい未来に傾倒する。少し悔しいが、やはり褒姫の笑顔に敵うものはない。

 楚の長城をぐるりと廻り、結構な長さに驚かされ、続いて現れた氷壁に言葉を失った。


「まあ山が凍ってますのね」

「ああ。まるで氷砂糖だ」


 春空の下に軒並み伸びている山脈は、白い面紗を掛けられ、輝いている。時折シャーと音がして、見れば融けた氷が雪崩る如く頂上を滑り降りていた。


 麗しい白馬が氷の山を駆け抜けて行く。凍った地面を蹄がしっかりと踏みしめる度に、さくりと音がする。愛憐は冷たさに顔を引き締め、見事な脚力で駆け抜けた。


 やがて氷の世界も終わりを告げる。

 針葉樹林かと見まごうような、痩せた岳樺を通り越し、何もない大平野を突き抜けたところで、ぶるると褒姫が震え始めた。


 無理もない。随分と北へ一昼夜に亘って走らせた。愛憐もそろそろ休ませるべきだ。

 ひやりとした風が姫傑の頬を悪戯する。褒姫の逸る気持ちを受け取るかの如く、愛憐は無我夢中で走っていた。

 全く一日があっという間に過ぎる。褒姫と一緒なら、もっとじっくり味わいたいが、だからこそ、早く感じるのかも知れない。


「そろそろ休むか」 


 木陰を見つけ、馬を止めると姫傑は、窮屈だと足篭手を脱いで散らかした。序でに胸当てと服も脱いで、放置した。

 褒姫は泉で水を汲み、愛憐の足を清めてくれた。

 松明を作って、猛獣避けの火をくべて、炎にお互いの顔を照らし合う。


「あんたは強いね。褒姫よ」


 二晩ずっと馬に乗り続け、降りるなり馬の心配をし、額の汗を拭いながら愛憐の鬣を丁寧に磨く褒姫は、離宮にいた時と変わらない。

 いつでもしっかりと動く。斉の太子の妻という尊いはずの身分も、褒姫には関係がない。褒姫は身分など考えてもいない。梁諱が褒姫を愛し抜く理由がわかった気がする。

 褒姫は水音に気づき、首を傾げた。


「淮河だ。渭水・淮河・泗水は、黄河の大いなる恵みを受けた水流だ。斉の海とは違って流れる、という感じだが。俺は好きだ」


 杏仁目を見開いて、驚愕している褒姫に言い返した。


「なんだよ。間違ってねぇはずだが」


「驚きましたのです。姫傑さま、こんなにも国の地理にお詳しいとは思わず。私には広すぎて、何が何だか。斉も広いのですが、まさか大地が、ここまで拡がっているとは」


 離宮を預かる夫人の、可愛らしい言葉に、座って足を伸ばして、夜空を見上げ、姫傑は笑った。 


「侵略のためだろうなァ。敵国の理は必ず叩き込まれるんだぜ。だから何となく、頭に入ってるよ。俺は文学は嫌いだが、こうやって旅すんのは嫌いじゃねえし。風土を見るのは楽しい」


「よく斉にもいらしてましたね」


 薄汚れた貴妃服を河に浸し、褒姫は丁寧に洗っている。気付けば、姫傑が脱ぎ散らかした服は足篭手まで綺麗に洗浄され、大振りな枝を広げた桃の木に掛けられていた。


「おいおい。俺が干されているみてぇだよ」


「明日には乾きます。泥だらけでしたのよ。文句は聞きません」


 必死に褒姫は服の汚れを落としている。上半身が浸かった姿は、かの天女のようだ。


「随分と念入りだな。風邪を引くぜ」

「ウッカリしてましたの。着替えがないのです。香料も、換えを持ってないのですわ。鳳仙花を見つけなければ」


「鳳仙花を見つける? ありゃ山のジメジメした場所にしか咲いてないだろ」


 姫傑は鳳仙花の特徴ある赤を思い返した。勉学は苦手でも、女性関係であらば、すんなりと脳裏に残っている。

 確か、爪紅とも呼ばれる美しい花で、触ると果実がぱちんと弾ける。後宮の女性は鳳仙花を煮出した染料を好む。


 そう言えば、褒姫は毒々しい化粧はせず、うっすらと内面から色づくような色合いの口紅が多い。

 鳳仙花や、巴旦杏、鉛の白粉は高級品で、濃い色であれば在るほど、高貴とされる。庶民の褒姫が使えるはずはなかった。


 その恥じらいこそが、褒姫が心の何処かで、庶民の自分を恥じている証明だった。


(梁諱にゃ、言えなかったんだな……)


 女が化粧品を恥じる。遊女が聞けば笑い転げそうだ。


 ――でも、俺は、あんたを嘲笑ったりはしねえよ、褒姫。


「あんたはそれで充分だ。悪かった。化粧にケチをつけたのではなく、あまりにも顔色が悪かったから。俺は、あんたには笑っていて欲しい」


 褒姫は、桃の木に手を添えたまま、まっすぐに長城の方向を見つめている。思い詰めた横顔に、笑顔を求めるのは難しい。


 褒姫の心には、恐らく夫の斉梁諱以外は存在しない。再会する瞬間のめかし込みを真剣に口にした。


(ッハ。俺の入る隙なんて金輪際ありゃしねえか)


 わかっていたじゃねえかと、自嘲して、肩を叩くと、褒姫はゆっくりと背の高い姫傑を見上げてくる。濡れた黒曜石のような瞳は、光を称えて、きらきらと姫傑を歪ませて映しては落ちる。


 姫傑は親指で天空を指した。今宵の月は半弦。少々不気味な色合いだ。釣られて褒姫も一緒に月を見上げ、洟を啜りながら眼を凝らした。


「文句なら、夜はきちんと寝ちまうお日さんに言いな。流石の俺も、夜道に女連れては走れねえ」


 褒姫は僅かに俯き、溢れてくる涙にどう対処していいか分からないようだった。

 そっと腕を背中から回すと、褒姫の肩はもっと震え上がる。


「泣きたきゃ、泣いてもいいけどな、梁諱に見せる涙がなくなっちまうぜ? いいの?」


 こくこくと頷いて、褒姫は唇を強く噛んだ。その麗らかな口元を吸いたくなる。

 髪を整え始めた首筋にチラチラと視線を這わせている欲を感じた己に気がつく。

 白い項は月に照らされて、しっとりと湿っている。


(また何を考えてやがる。莫迦野郎め)


 一瞬ちらっと思い描いた莫迦げた考えを、空の彼方に放り投げるつもりで、首を振っていたら、桃の幹に思い切り激突した。褒姫は一瞬はっと動きを止め、擦りむいた額を笑って撫でてくれた。


 その夜は、泣き疲れたのか、愛憐ではなく、褒姫は姫傑の足を枕にして、横になった。

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