斉の桃花扇――斉の若妻と趙の太子①

 ってテテテテテ。

 匈奴との戦いから姫傑は離れ、一発失敗して自分に当てた箇所脛に手をやった。


「チ、ぬかったぜ……」


 膝がズキンと悲鳴を上げ、足を止めた。と、馬の気配がした。


「趙の太子さまだったのですね」


 幾人かの武人が、馬を引いている。姫傑はぽりぽりと頬を掻いて、頷いた。


「あんま見んなよ。失敗して、脛を打った。警備はちゃんとしろよ。王城なんかより、花街。綺麗なオネエチャンたちが、喜んで接吻してくれるぜ」


 兵たちは頷いて、汚れた頬を拭った。趙であれば、武勲に取り立て、官位をやってもいい。だが、斉の王族は斉梁諱の息の掛かった者を認めない。


(さてと。俺の綺麗なオネエチャンたちは、どこまで走ったのやら)


 愛憐はなぜか月が昇ると、どんな場所でも座り込む癖がある。褒姫を乗せて、逞しく逃げ、多分どこかで止まって姫傑を待っているに違いない。


 姫傑の前に、一頭の馬が引き出された。


「お、お使いください。よく磨いてある馬です」

「莫迦ぁ言え。施しは要らん。それに、俺にゃ、とっときの美人がいる。俺を上にしても尚、動じない素晴らしい美人が、宝物を乗せてんだ。早く行かないと」

「ですから、馬を使ったほうが早いかと」


 そりゃそうだ。


 ――姫傑さま。貴方は少し〝向こう見ず〟なところを直しなさい。


 急に趙の大師の婆の説教を思い出し、姫傑はがりがりと髪を掻き上げた。脛が痛む。断るのも莫迦らしくなって、ぼそりと返答した。


「借りる。だが、途中でこいつは返す。迷子になって野良馬なんかにゃ、したくねえぞ?」


 馬を引いていた兵は、にっこりと笑った。


「ご心配なく。こいつは、斉育ちの馬です。幾度か梁諱さまにも貸し出しました。その際も、きちんと帰り着いておりますよ」


 頷いてひょいと馬に飛び乗り、手綱を引き絞ると、斉の若兵と別れ、ひたすら秦への一本道を進んだ。

 夜空の星は、こぼれ落ちそうなくらいに、瞬き、天の河が濃紺の宙を縦断させている。走っても、走っても、夜空はついてきた。

 不意に涙が溢れ始めた。消えた涙も、星と同じく輝いている。

 馬の手綱を震える手で掴み、姫傑は夜を走り続け、斉を抜けた湖畔でようやく白い馬と、手を優しく鬣に置いた褒姫を見つけた。

 見れば、褒姫の折り曲げた足の上には熟れた桃が転がっていた。


「姫傑さま! よくぞ無事で」


 褒姫は、紅を足したのか、夜であれ、口紅は薄れてはいない。多分、昼間の姫傑の言葉に、感じるものがあったのだ。褒姫が結構勝ち気な性質だと初めて気付いた。


 寝入ってしまった牝馬を褒姫は美しい手つきでゆっくりと撫でる。夜風が二人の間を駆け抜けていった。


 姫傑の怪我を見抜いて、薬草を摘んで水で冷やし始め、見つけたという胡桃を差し出した。棍で割ると、柔らかな身が出てくる。僅かな食糧を分け合い、姫傑は褒姫を見やった。


「ごめんなさい。食べ物は用意してなくて、離宮に戻れば」


「匈奴の襲来があった。斉には、もう戻れない。おまえたちは幸せになるべきだ。趙に来い。ずっと考えてたんだ。褒姫。斉梁諱の元が、貴女のあるべき場所だ」


 褒姫は少し腫れた目を姫傑に向け、つんと唇を尖らせた。初めて見る表情だ。


「当然でございましょう。お疲れのようですね。寝床を作っておきましたから、少しお眠りになっては? 全く、海匈奴に立ち向かうなんて、無謀にも程があるというものよ」


 言葉は窘めているが、口調は優しい。愛憐に寄りかかると、むっくりした馬の体温は、意外に心地いい。


 上着をそっと掛けてくれた褒姫に、無意識に腕を伸ばし、隣に座らせた。

 月夜の下で、ほっそりとした手の甲に唇を押し当てる。


「貴女も、少し休めよ。大丈夫、梁諱の元には、俺が責任を持って連れて行く。秦の長城は、遠い。いいな、褒姫」


 月夜が綺麗で泣けてくる。今頃は斉梁諱も、長城で月を見上げているのだろう。


 ――大丈夫、俺が、褒姫は護る。今度こそ、おまえと褒姫は幸せになるんだ――。



 腕の中に在る、大切な体温は、どこまでも暖かかった。



 

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