斉の桃花扇――海の匈奴
愛憐は二人を乗せている違和感を感じたようで、少し走りづらそうだったが、姫傑の声が聞こえると、元気に足腰を上げ始めた。
褒姫は姫傑の胸板に頬をすり寄せては、謝りつつ、頭を振っていた。
斉の巨大首都・臨淄を走り抜ける前に、姫傑は愛憐の歩みを止めた。
(海がおかしい)
波が高い気がする。しかも、重く水面が揺れてそう、何かが迫り来るような……。
ちょうど斉の兵とすれ違った。各々が武器を掲げ、港に走って行く様子は、物々しさを感じさせる。
「海の匈奴かい」
「そうです! 我々は海辺の人間に避難を促しに行くところです! 斉梁諱さまがおらぬ以上は、長城も、海も、侵略は時間の問題でしょう! 趙の応援を頼むも、王は趙と連絡が取れない有様で、斉梁諱さまを呼び戻せと怒鳴りつけ、今度は失態を趙に知らせるなと」
まさか姫傑が趙の太子だとは思いもしない兵卒は、捲し立てた。
連絡など、取れるはずもない。趙の軍事体系は、二人の悪徳仙人、貴人・白龍公主芙君の手で崩れている。今や趙は、無法地帯だ。しばらくは、王族たちも反乱により殺され続ける。
一部の王族を覗き、死に絶え、皇宮ごと凍っている。氷龍の怒りよと、人民が怯えたところで、姫傑は立ち上がった。訃報に見舞われ、不安を掻き立てられた人民の心を掴むのは、容易かった。白龍公主の力も大きい。まずは斉梁諱を呼び戻し、褒姫と共に趙に呼ぼうと考えた矢先の、秦の長城崩壊の知らせであった。
「滅んでしまえ」
は? と聞き返す名もなき兵卒に、姫傑は再度、怒りをぶつけ、言葉を投げた。
「滅んじまえって言ったんだ! 国の名を護る程度で、太子と、公主を天武の莫迦に差し出すような王は、死ね! アァ? いつでも、この趙王が直接、踏み込んで、脳漿をぶちまけてやるってな! 邪魔だ! 退け!」
「姫傑さま! 殺生はいけません!」
褒姫の言葉に、振り上げた棍を納める。夫婦で揃って、俺の狼藉を止めようとする。眼の前で、兵たちが居竦み始めた。
港に何隻かの見慣れない船が止まっている。旗は赤だ。相手が何者かに気がつき、姫傑は怒鳴り散らした。敵襲だ。こんな時に!
「兵が少ない! 港の警備に回せ! 埠頭で食い止めるべきだ」
「駄目です! 兵がいません!」
「兵が、ないだと?」
「すべて王城警備に回しておりまして、斉梁諱さまが、ようやく掻き集めた次第で」
「莫迦野郎! 港の警備に何故、軍を割かん! 梁諱なしでは、軍の配置もできねえのかよ! 奴らは甘くない! 略奪が始まるぞ! 妓女が狙われる! 花街の大扉を閉めるんだ! 兵はおい、震えてんじゃねえ!」
いつしか集まった兵たちは顔を見合わせ、すぐに王城に向かって走り去った。
へなちょこが!
舌打ちをして、長剣を引き抜いた。
すぐに敵は上陸する。港で防げなかった以上、街への侵入は、容易く行われる。その時に危険なのは、女性たちに他ならない。
(俺は、あの花街が好きなんだよ! 泥くせぇ男に略奪なんかこの俺が許すかい!)
「褒姫、ちょいと高見の見物……。いいや、逃げてもらおうか! 愛憐、先に行け!」
え? と褒姫が顔を上げると同時に、姫傑は愛憐の脇腹を棍で叩いた。愛憐は痛さのあまり飛び上がり、まっしぐらに海沿いを駆け抜けて行く。
咄嗟で褒姫は暴走する愛憐にしがみつき、そのまま斉を抜けていった。空を見上げて、姫傑は遠き秦の斉梁諱に向かって心で怒鳴りつける。
(姫は逃がしたぜ。てめえは当然、生きてるんだろうなァッ!)
長剣と棍を手に、姫傑は足を広げて身構えてみせる。敵は次々に船から飛び降りている。
棍を肩で弾ませて、姫傑は唇を舐めた。
(まあ、やって見なきゃ、わかんねえわな)
趙では姫傑に敵う者など独りとていない。
見慣れない衣装の海で死にかけて土地を探して上陸した男たちは、獣の如く眼をぎらつかせている。
――ここで負ければ、すべて殺られる。斉梁諱、褒姫の大切な場所をこれ以上は踏みにじらせねぇ。
棍を振り回して、両手で掴む。ふと、背中に梁諱がいる気配に、正気に還って寂しくなった。そっと眼を閉じる。
〝勝負しに来たのだったな? だが、将軍相手に容赦して貰えると思うな?〟
梁諱は、あの夜、褒姫と最期までいるよりも、姫傑との勝負を取った。将軍として死闘を受けた。仙人の眼という最期の切り札を姫傑に託して。
(負けるわけにゃ、行かねえな!)
「さて、俺様は機嫌が悪ィんだ! うらあっ!」
敵に突っ込んで、手足まで使って大暴れするべく、長剣を構えた時に兵の気配がした。
「無謀です! 我らが手助けします」
梁諱が率いていた一個軍たちが、匈奴を迎え打つべく、並んでいた。
朝陽の中で、兵たちは誰もが覚悟の表情だ。
「将軍に、いつぞやの羊肉が美味でしたとお伝えください。趙のお方」
斉梁諱の兵だけは、逃げず果敢に立ち向かってゆく。姫傑は自然と頭を下げた。
――見ろ、ここにも、おまえを信じてる奴らがいるんだぜ、褒姫を連れてけば、おまえ、いくらなんでも、帰ってくるよな、梁諱――
姫傑は首を振った。これでは、まるで二度と逢えないと自分で決めつけてるみたいじゃねえか?
(俺が弱気になって、どうすんだ! 天武に勝つなど、不可能になる!)
「うおおおおおおおおおおおおお!」
迷いを吹っ切るような姫傑の棍が、まずは敵将の頭蓋骨を砕いた。皮切りに、斉の軍が港に雪崩れ込む。打ち上げられた海月が、たくさんの足に踏み散らかされて行った。
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