第五章 斉の桃花扇 朱に依りて花朝に散り、鮮やかに嘲笑う

斉の桃花扇――趙の姫傑、長城へ向かう①

 新たに用意された皇宮で休んでいた趙の姫傑の元に、秦の長城の崩壊の知らせと、斉の海匈奴が襲い来るという知らせが飛び込んだのは、明け方だ。

 例の如く飛び起き、夜中、抱いていた貴妃を蹴飛ばして、着替えを手に厩舎に飛び込んで、美しい愛憐を撫でて起こし、背中に飛び乗り、斉への道を走らせた。

 景色は移り変わり、新緑を見せ始める。

 勝手知ったる趙から斉に続く洞窟を抜け、海辺を跳んだ。

 見慣れた離宮が見え、平穏そのものの海に、一つ、杞憂が減った。


「ま、間に合ったようだな」


 隣国の海匈奴は、脅威だ。高句麗から流れ出る遊牧民族とは違い、海の過酷さを知っている。常に飢えており、食糧も、女も、すべて連れ去るという。


「愛憐! ここで待っていろ!」


 名を呼びながら、どすどすと離宮を歩き回る。褒姫は朝露の美しい庭に佇んでいた。


「まあ、姫傑さま? 相変わらず驚かせてくれますね。どうしました?」


 秦の長城が崩れた。


(無事かどうかは、どうしても確認が取れなかった。嫌な予感がするぜ)


 ふと、褒姫の足元に眼を向けた。こんもりと、冬着が山になっている。仕立てから見て、梁諱の上着だ。褒姫はせっせと朝陽に向けて、干していた。


「長城は寒いでしょう? 特に秦は冷え込むと言いますから、あの人、冬着を持たずに出たので、せめて暖かく包める冬着を届けようかと選別していたところです。少し、私の香りを移したかも知れませんが」


 見れば、褒姫は大切そうに、夫の上着を抱き締めている。体温を残している。


(いいなそんな妻、俺も欲しいぜ)


 一瞬、梁諱が羨ましくなった。が、それどころではない。


 そもそも女一人で、どうやって秦に向かうつもりかと見渡せば、雪越えのための草履やら、冬の肩掛けやらが庇に置き晒されている。どうやら夫の冬着を背負い、秦まで歩くつもりだ。無謀すぎると、姫傑は、ちょい、と外に止めたままの白馬・愛憐を指す。


「俺が後で嫌じゃないなら、連れてゆくぜ。褒姫、俺はもう自由だ。早く斉梁諱に伝えてやりてぇ。もう、俺には怯えるものはない。心置きなく秦を潰せる。秦と趙・斉の大戦争をやらかそうぜ! とな!」


 褒姫が首を傾げたが、女に説明する内容ではない。褒姫は一着の上着を差し出した。


「風を切れば、寒いでしょう。夫が着なかった一着ですが。宜しかったら、どうぞ」


 こりゃ、参った。

 ふかふかの羽毛のような上着は、ほんのりと桜の香りがする。恐らく褒姫の好む香料が移ったのだ。一つ一つを夫に伝わるよう、褒姫は抱き締めていたのかも知れない。


 湿っているのは、涙のせいだ。上着一つ一つに褒姫の愛と哀が染み込んでいる。


 褒姫と丁寧に上着を包み込み、愛憐の尻に下げた袋に詰め込む。褒姫を抱き上げ、姫傑はやるせなくなった。


 痩せている。髪も、肌も艶を喪った気がする。更に紅をつけていないせいで顔色が悪い。


 ――夫がいなくては、化粧もできねえか……。


「褒姫、紅をつけねぇのって、俺に口、吸われてえの?」


 褒姫の口元を抓み、無骨な指を這わせ、姫傑は無邪気な気持ちで微笑んで、手を離すとすぐに褒姫は離宮に飛び込んで行った。

変わらず、穏やかな母のような海が銀の光を纏い、靜かに揺れている。

 ここで斉梁諱と死闘したのが、悠か昔のようだ。


 ――好きな女を痩せこけさせて、化粧ができないほどに憔悴させて。何が国だ。


 海の波飛沫に気がついた。足元には海月が大量に流れ着いている。凄い数だ。透き通ったまま、干涸らびていた。爪先で海に還してやったところで、褒姫の声がした。

「お待たせしました」


 綺麗に眉を描き、少し垂れた眼に縁取りをして、ほお紅に口紅をつけた褒姫は、恥ずかしそうに顔を背けた。


「口紅を引いたら、覚悟ができました。こんな表情で梁諱の心を揺るがしてはならないと。さすが、女性の扱いには、長けていらっしゃると感服いたしました」


「良かったら、梁諱の野郎の武勇伝でも聞かせてやろうか? 秦への道すがら、夫の駄目な部分を聞くのも一興かもよ?」


 ――ケッ。ほんの意地悪だ。悪く思うなよ、梁諱。


 褒姫を前に跨がらせ、自身の距離を取っていると、褒姫が震え出した。海風にあまり当たり慣れていないのか、馬を走らせると、すぐに躰を震わせる。

 姫傑は手綱を口に銜え、がりがりと頭を掻いた。


「褒姫、俺に寄りかかりな。ちったぁ暖かいぜ」

「おそれいります」


 ふわり、と髪に焚きしめた香が鼻を擽った。どくん、と心臓が高鳴る。褒姫の震えは収まり、代わりに姫傑の額には汗が滲んだ。


(俺、まぁだ、こいつのこと……)


 思ったら口に出さずにいられない性分だ。息を吸い、ぶっきらぼうに告げる。


「俺、あんたが好きだぜ。尽くすいい女で、斉梁諱にゃ、もったいねえもんよ」

「それは、どうも。趙の太子さまに恐れ多いお言葉ですわね」


 軽い口調は、冗談で受け流される。やれやれ、俺には、これが精一杯だ。


「じゃ、行くぜ。ああ、あと。上着なんかで暖めるより、あんたが素っ裸で抱きついたほうが梁諱は喜ぶ。全裸好きの変態だ」


 面白くないので、梁諱の男の株を落としてやろうとしたが、褒姫は嬉しそうだ。


「まあ、いやらしい。ほほ、でも私は、脱がすのが好き。少しずつ、見えてくるのに、どきどきするのです。私の楽しみのあとに、梁諱を愉しませてあげましょう」


 全裸の褒姫が、少しずつ、斉梁諱を脱がしてゆく。その間に梁諱は天に昇る心地でしっとり湿り出した褒姫の裸をいやらしく堪能し一糸纏わぬ姿で、そのまま――。

姫傑は、二人の蜜夜をしっかり思い浮かべ、自分の妄想の逞しさにげんなりした。


 莫迦夫婦は一生ずーっと莫迦やってろ。ああ、羨ましい。


 思惑の外れた姫傑は、腹の中でまたしても、悪態をついた。褒姫が気付く前に、自分の昂ぶりが早く消えて欲しいと、褒姫を汚してはならないと、強く自制した。

              

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