斉の王太子――斉梁諱の名が消える刻

 割れた雲を蹴散らし、閃光が降り注ぐ。

(春雷か? いや、違う)


 どんよりとした空気中に、巻層雲のような金の光が舞い降りた。


 ――貴人がいる!


 空気が重く震動し、大きな雷鳴が轟いた。不気味に空中の震動は続いている。


「わたしの眼を奪った男……許さぬ」


 琵琶を抱え、雷光の中、ない瞳をして、蛟龍仙人は憤っていた。


「貴人! なぜ、おまえが!」


 ちらりと貴人は香桜を見、ふんと顔を背けた。手が靜かに琵琶を弾き始める。

ゆったりとした音色が流れると、男たちの足は停止した。


「うあああああああああ!」


一人、また一人と頭を抱え、発狂した。長城によじ登って、頭を打ち付け始める。


「何をしている!」


 斉梁諱の制止も聞かず、男たちは、ゆらゆらと地獄から這い上がるかの如く長城に群がった。壁に歯を立て、齧り、狂って自分たちが作らされた壁に爪を立て、嘔吐しながら躰を打ち付けた。 


貴人の笑い声が反響する。


「そうか、そうか、そぉんなに、壁を作るのが嫌だったか。っハハ! さぁて、貴様は、どうしてやるか」


 阿鼻叫喚の上で、貴人はうっすらと笑い、満足そうに狂った人間を見下ろした。

貴人の儚げで薄倖な笑みは、斉梁諱に向けられていた。


「そうだな。まずは眼を戴こうか。いいや、不要。潰してやろう」


 くい、と貴人の指が動いた。長城に座った貴人は、足を投げ出し、感情のない眼で斉梁諱を操るかの如く睨んだ。


 夜気に混じり、斉梁諱の絶叫が響き、手で眼を押さえ、斉梁諱はのたうち回った。


 瞬く間に、斉梁諱の美しかった瞳は血で染まった。


「あーははははは! ん? 人が多くて見えぬ。邪魔だ……」

「やめろ! 貴人!」


 香桜の声と同時に、大きな音を立てて琵琶が鳴った。合図に、男たちは次々長城から飛び降りた。


 ピクピクと痙攣するいくつもの四肢の中で、斉梁諱だけが生きていた。


「仙人のわたしの眼を抉った罪は、己で償え! さあ、喰ってしまえ」


 泥蛇が足元から這い上がり、皮膚を食い破った。斉梁諱の絶叫が再び響き渡る。貴人の横暴を、横目で香桜は傍観していた。止める気はない。

ふいに空気が熱くなった。遥媛公主だ。炎の気を纏っている。

 冷静な貴妃・淑妃の皮を捨て、般若の如く唇を噛みしめていた。


「おのれ貴人!」

「遥媛! 待て!」


 遥媛公主は振り向くと、優雅に貴妃服を抓み、深く頭を下げた。言葉は分かっている。


「天帝龍仙一香さま。一緒にいさせて戴き、とても楽しゅうございました。それでも、私にも護りたいものがございました。どうか、どうか、お許しを!」


 香桜は何も言えない。引き留める感情すら、湧き出ない。

永年に亘って敬愛の元、従って来た女華仙人との、別れであった。

 ようやく声を振り絞った。


「今まで、よく仕えてくれた。遥媛公主山君。直ちに公主山君の位を返上せよ。人間に思い入れ過ぎる女華仙人に、位は与えられぬ。俺はここで見るだけだ。すべてを見るだけだ」


 遥媛公主は一度だけ微笑み、形相を変えて炎の鳥になって、貴人に突っ込む。いつしか生えた火棘が砕け散って空に舞い散る。


「させぬぞ! 貴人!」


 気を取られた貴人の前に、炎の壁が立ち上り、斉梁諱を食んでいた蛇もろとも、貴人を呑み込んでゆく。長城を包むほどの大火が押し寄せた。それは恰も自害させられた人々への鎮魂の火だった。

 嘲笑うような貴人の前で、遥媛は紫綬羽衣を翻した。


「共にはぐれた天人同士。勝負をつけてやろうではないか。これ以上、斉梁諱に傷つけること能わず、朽ちてゆけば良いわ!」


 貴人は蛟、遥媛は炎だ。炎に焼かれ、蛟は飛翔能力を無くし、地を這った。

遥媛の炎は天界のものを焼き尽くす地獄の業火だ。即ち、貴人を焼き殺せる炎。

 指先まで遥媛の火に包まれた貴人は、恐怖で唇を震わせている。

 火棘から生まれた女仙人の本気に、堕ちた蛇が敵う理由はない。


 貴人は消える直前、決死の一矢を斉梁諱に放った。元黄龍の最期の一矢だ。斉梁諱の腕が吹き飛んだ。斉梁諱の潰れた悲鳴の中、貴人の声もまた響く。


「わたしは諦めぬ! だが、趙は滅ぼしてやった。これで、秦と趙は、対等になった……」


 最期の一言を空中に残し、琵琶を残し、貴人は去った。だが、魂魄はしっかりと残っていた。また、どこかで暴れ回るつもりだろうが。

 炎の中に悠然と立つ遥媛の姿に、斉梁諱が気がついたが、潰れた両眼では、遥媛の姿は視認できない。

 血を流した双眸を、霞む遥媛公主に向けている。遥媛は土だらけの手を掴んだ。

 斉梁諱はふらりと立ち上がり、長城の方向に向いた。ずず…と動かない足を引きずり、亀の如く進んでゆく。


 斉梁諱の口元には、笑みが浮かんでいた。貴人の一矢は、斉梁諱の首と、腕を掠り、右腕を吹き飛ばしている。それでも、斉梁諱はずるずると斉の方向へ足を進めた。


「帰らなければ……。褒姫と、子供を育て……。暖かな家庭を……。そうだ。約束を破ったから、釵を……。何故、遥姫、すまなかった、なのに、わたしは泣けない。血だけが流れる……」


 双眸はすっかり血に染まっていた。遥媛公主は白い指で、斉梁諱の眼を拭った。


「もう良い! 貴人は追い返した。お兄様……貴方は、どうして幸せを望まぬ。褒姫がいるのに、何故に咸陽などに! 莫迦な男よ! お兄様、どうして」


 遥媛公主と遥姫が同時に話しているような混じり合った口調。遥媛は斉梁諱を胸に引き寄せ、涙をこぼした。きつくきつく抱き締めて、声を震わせている。

 遥媛の震えた声音は、気高く、見守っていた香桜の胸すら打つ慈愛深さだ。


「斉に帰りましょう。私がお連れします。遥姫も、一緒に」

「ああ、斉、に……?」


 ――そろそろ、終焉だな。


遥媛の前に、香桜は靜かに降り立った。



「斉梁諱。そなたの命運は、ここで尽きる」


 斉梁諱には、香桜の姿は見えない。遥媛が唇を噛み締めた。


「遥媛、離れるんだ」


 天剣を翳して、香桜は遥媛を見た。遥媛は兄の斉梁諱を抱き締めたまま、動こうとしない。香桜の問いに、懸命に首を振っている。後宮貴妃の遥媛を殺すわけには行かない。ここで遥媛公主を消せば、歴史が変わってしまうからだ。

 血で薄れた瞳に、龍の剣が映っている。斉梁諱は顔を上げた。


「一つ、聞きたい。貴人の瞳を、どうやって奪った? あれでも、貴人は龍族だ。簡単に龍眼を奪われるはずがない。もしや、華仙人を見知っていたか」


 斉梁諱は靜かに俯き、血溜まりの瞳を向けて、声を発した。


「貴人と言うのか? 綺麗な瞳をしていた。確かに、わたしは力が欲しかった。姫傑なら、すべてを託せる。愛する妻も、きっと幸せにしてくれる。必ずや趙を動かし、秦を打ち倒す。お願いだ、褒姫と姫傑には、わたしが死んだとは伝えないで欲しい」


 膝をついた手に、血涙がこぼれ落ちた。


 楯のよう、斉梁諱を抱き締めて庇っている遥媛の背中に天剣を振り翳した。


「あ……アァ……!っ」


 焼け付くような熱さの中で、遥媛が斉梁諱を抱き締めようとする。

香桜は龍剣の柄を強く握ってまま、静かに天剣を下ろした。


「遥媛。もはや終わった。忘れたとは言わせない。俺の剣は肉体ではなく、魂魄を切る断絶の剣なんだよ」


 言われた遥媛が腕を見た。聖母に抱かれ、永久の眠りに就いた男の姿が其処にあった。


「お兄様ァァァァァ!」


 人間の如く泣き叫ぶ、すっかり人間に毒された女華仙人をしっかりと抱き締めた。遥媛の体温は僅かに暖かい。これが、仙人でなくなった証拠だ。

 感情に伴い、体温が上がるのは、人間のみ。


「咸陽に戻って貰うぞ。斉梁諱は長城で反乱を起こした事由で、皮肉にも、秦に斉を攻める口実を作ってしまった。長城の異変は咸陽に伝わり、天武はすぐにでも、大軍を斉に向かわせる。その前に、一働きするならば造反は許しても良いが」


 遥媛は首を振った。


「私は最期まで、火棘の女華仙人、遥媛公主山君でありたく存じます」


 言葉を繋がず、立ち上がって、事切れた斉梁諱に指を向けた。


 ぽ、と小さな炎が、最愛の兄に移り、彩ってゆく。炎の中で燃え尽きるまで、遥媛は斉梁諱を抱いていた。肉は炭となり、骨は地に砕け散る。魂魄を切られた心は、もはやない。


 貴人が消え、遥媛の炎が辺りを焼き尽くした後の極寒の地には、いくつもの魂が行き場をなくし、徘徊していたが、すぐに咸陽と、華陰に向かって飛び散った。いくつもの魂が空を翔る。曇天の空を突き抜け、流れ星の如く美しかった。


――ようやく、大切なものの元へ、みな還れる。だが、斉梁諱の魂は、もはや飛ばない。魂すら、愛おしい地へ還れない。


「許せ。遥媛を殺さずに、そなたを殺すには、魂魄を切るしかなかった」


香桜は呟き、劉剥はどうしたかと思ったが、あの男の話だ。さっさと逃げたに違いない。また、どこかで逢えるだろう。

 消える人魂を涙目で見上げる遥媛に、香桜は優しく告げた。


「悪女が、聞いて呆れる顛末だよ」


 悔しさの入り交じった声音で悪態をつくと、遥媛はいつかの悪徳貴妃の眼で笑った。


「それでも、後悔はしていません」


 着飾り、もっと美しく佇んでいた時代もある。今や泥を頬につけ、返り血で衣装を濡らし、髪は解けて見る影もない。兄であった斉梁諱の形見の剣を優しく抱く遥媛公主は綺麗に見える。


香桜は系譜を開いた。


「見送ろう。斉梁諱の名が消えるまで」


 銀河にも等しい系譜の上で、斉梁諱の名前はゆっくりと遠ざかり、闇に堕ちていった。一人の名前が消える度に系譜が蠢き出す。


 秦の長城の空は雲が霽れ、咸陽を包む東の空はうっすらと白んでいた。

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