斉の王太子――行くぞ、咸陽へ――……
斉梁諱が長城建築に携わって後、半月が過ぎた――。
恐れた秦の斉・趙への進軍は、直ぐには行われず、大層穏やかな時間が流れていた。天高く伸ばした系譜を、一人眺める。
妃嬪の系譜。
紐解いた時から、歴史が始まった瞬間を、香桜は昨日の如く思い出す。
創世の瞬間だった。有史以来の孤独も一緒に浮かび上がる。
龍とは、孤独の代名詞だ。いつか幻想とされる悲しき生物でもある。
どこから来てどこへ行くのか。来し方行く末それは誰にも分からない。
後宮では、腹部が目立ち出した庚氏妃と殷徳妃の勢力争いが激化の一方を辿っていた。二人の図式は、そのまま魏の新兵と秦の古兵の抗争に繋がった。
代わりに信宮の建設が進み始めた。今度は渭水南に宮殿を繋ごうと考えている。
そんな中で、後宮の花芯の札の確率が少しずつ、増えた。
影には、天武を思いやる忠臣の企みが見え隠れする。だが、見ている限りでは、欲を知った花芯を、天武は避けている。
辿り着いた秦の長城の上空。頬に冷風が当たった。夜気に眼を細めた。
「寒いな。さほど北ではないはずだが、深夜だからか」
春だというのに、長城には木枯らしのような風が絶え間なく吹き付けていた。
空中高く、系譜の羽衣のような白い帯がたゆたって、月の下舞う桜桃の葉を巻き込もうとする。春と冬が揃っている有り得ない現象。
香桜が僅かに孤独に片足を浸した時、ふわりと雅な香が鼻を掠めた。
麝香を好む遥媛公主は、長城の上空に女神の如く浮遊しては、夜も昼も兄を案じ続けていた。
「天帝。こちらにいらしたのですか」
月の前には、絹雲が薄く伸びている。
「春夜の雷か」
「ええ、明日は曇天ですわね。良くない気を感じますわ」
雲は暗雲に巻き込まれ、白を喪い、渦巻いている。隙間から細い稲妻が見えた。
遥媛公主は髪を片手で掻き上げ、悠々と煙管を銜えて煙を吐き、ん? と首を伸ばして地上を見下ろした。
東の空には、まだ陽は見えない。北の日の出は少しばかり遅い。
夜の闇が蠢いている。寝ていた集団が蠢き、ぽ、と松明に火が灯った。
斉梁諱と劉剥が長城の頂点に立ち上がり、奴隷たちは長城に集まっている。
斉梁諱は当初は受け入れられず、孤独に食事を拒んでいた。だが、劉剥の手で食事を与えられ、太子の自尊心を捨て、汚れた服を着、死人の泥団子をも口にするようになった。
一人で真面目に砂を運び、死体を掘り出して、整地に費やした。その姿はまず、囚人一人を改心させ、一人を戦かせた。たった一人が最初だった。やがて、官吏の劉剥が味方になった。劉剥は人を見る目を確かに持っている。
劉剥の態度から、部下の遊侠たちがまず斉梁諱を受け入れる。高貴な斉梁諱が仲間を思いやれば、それは誰もが欲す、認知の喜びに繋がる。
他の流刑地と秦の長城が違う決定的な差は、李劉剥と斉梁諱が揃った事実だ。
やがて畏怖は長城全体に伝わり、太子の鎧を捨てた斉梁諱は遊侠は勿論、囚人たちの心を掴む。元々斉梁諱には、そういった超人間的資質が備わっていた。
劉剥や珠羽然り、龍の種を持たずとも、人の上に立てる素質だ。更に、太子の心を忘れてはいない斉梁諱は奴隷であっても、人々を率いる牽引力は逆境に負けず、より激しくなった。
〝わたしは、すべての人民を逃がす〟
〝俺は、すべての遊侠を逃がしてやる〟
くしくも、劉剥の想いを補佐する形になっていた。
再び遥媛公主の髪が大きく揺れた。
「雲の隙間から不気味な光が漏れていますわ」
遥媛公主が余りにも不安がるので、再び一緒に空を見上げる羽目に陥った。眼を凝らしていた香桜は咄嗟に叫んだ。
「稲妻が落ちる!」
チリチリと雲が焼けている。乱層雲と積乱雲が共に空を埋め尽くしていた。
違う。人間には単なる乱雲にしか見えないが、龍眼はしっかりと、絡み合う龍を見抜く。
騰蛇が何かと戦っている。そのせいで、夜の稲妻が引き起こされている。
地上では、斉梁諱が堂々とした声を張り上げたところだった。
「良いな! 一部は北へ、長城を抜けよ! 残りは、わたしと共に咸陽だ! 劉剥! 遊侠たちを先導にしていいのだな」
劉剥は官吏の服を半分脱ぎ、剣を一舐めし、月夜に翳した。
「そのあと、俺も逃げっけどな、おい、おまえら、華陰の遊侠の覚悟を見せてやんな! これで賭場の借りは、チャラにしたらぁ」
劉剥は、やる気があるのか、ないのか、皆目わからない返答している。
朝陽が昇る時間の春雷は、天武は華陰を襲った時と類似していた。
「危険だ! 咸陽に向かうつもりか! 恐らく天武と刺し違える! ああ、褒姫がいれば」
「褒姫? ああ、斉梁諱が口にしていたね」
「お兄様は、妻以外のいうことを聞きはしない」
遥媛公主が動こうとするのを、手で止めた。驚いた翡翠の瞳がただ、香桜を悲しげに映していた。
「天帝! どうして見殺しにせよと言うのですか!」
香桜は首を振った。みるみる遥媛公主の双眸に麗しい泉が溢れ返った。花芯と違い、零したりはせず、遥媛公主は艶やかな瞳で一度だけ滴を落とした。
時折喰った対象に揺らされる。恐らく体内に入れた天武の種の影響だ。
「彼らの生き様を見届けるのが我らの役目。遥媛公主、辛いなら、抱いてやろうか」
遥媛公主は眼を開き、フフと笑った。
「何を血迷っておいでですか。花芯がいるのに」
「別に誰でも構わないぞ。なーにを今更」
「戯れには限度をお持ち下さいませ。移動しましたわ」
長城の囚人(と言っても、大半が罪を着せられた反逆者扱い)が三つに分かれた。砂煙上がる極寒の山地を、たくさんの足が踏みしめる。
さくり、と霜柱の音が響いた。
斉梁諱は咸陽へ行き、人々を解放せよと天武に申し入れるつもりだ。
だが、天武は逢わない。それであれば、斉に帰ればいいものを。
斉梁諱の性格を天武は見抜いている。自滅を誘っている。斉梁諱は自ら自滅の道を進んでいる自分に気付いていない。
『すべては上手くゆく。神も眼を背けるほどの大罪でも、信じればこそですわ。見逃してくださいませんの?』
庚氏の言葉は正しい。誤算は、庚氏も、斉梁諱も、天武の怖さを分かっていない。それは、幸せを望まない天武の無慈悲な覚悟だ。
屠る所業を当たり前に考え、親を自身の手で引き裂くまで、天武の無慈悲は続く。その覚悟の前には、庚氏の企みすらも塵芥となり得る。
「雲が割れていきますわ!」
『行くぞ! 咸陽へ!』
斉梁諱の号令で、男たちが長城を一斉に昇り始めた。
手には武器。固まった死体の腕や足を布で補強したものだ。そんなものしか、手にはできなかった。
――打倒、愁天武。咸陽へ!
支配された心は、唯一〝正常だった〟斉梁諱の手によって取り返せたのだ。
何者も、踏みにじられ、尊厳を喪い、屠られる理由はない、死に行く理由もないのだと。
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