幕間――神も眼を背けるほどの、大罪を
舌舐めずりをし、香桜は貫いた剣を片手で掴んだ。手の皮に刃が食い込み、鮮血を流す。掴んだまま、思い切り上に引き上げ、自ら肉体を割いて見せた。
肉と筋を断つ音が響く。両眼を伏せて、腹で笑った。
珠羽が、片足を後に引いた。
上半身が血で染まる。通常であれば相当に痛い。珠羽は、急所を的確に狙い、鎖骨と脇を狙った。しかし華仙人、それも天帝となれば、痛みなど凌駕しているに決まっている。
「叡珠羽。おまえとは、関での勝負がついていなかったな?」
庚氏が眼を見開いている。珠羽が無言で剣を構えた。
魂魄を残さずに八つ裂きにしてやりたいが、それは系譜の意図に反する。何としても珠羽と庚氏は楚へ戻さねば、歴史は進まない。
「ふん、酷い傷を自分でこさえたんだ。出血多量で死ぬ。珠羽、相手にする必要はないよ」
貴妃の優雅さを捨てた、しっかりした命令口調。眼の前で、香桜は自分の服を引き裂いて見せる。
「傷? さぁて、どこにあったかな?」
「化け物……」
「人間ほどの魔物ではないぞ? 痛かったな」
綺麗に繋がった肩を軽く揉み、剣に手を掛けた。しかし、珠羽の剣は再び香桜を襲う。
ゆらゆらと揺れる蜃気楼の如く、香桜は避けて見せた。
「そんな未熟な剣では、女は護れまい。ああ、護れないから、天武の子供などを宿すのか」
「もう一度、言ってみろ! 貴様ああぁぁぁああああ」
すぐに激昂する性分は、既に見抜いた。珠羽は自尊心が高すぎる。
「何をやっている! 安い挑発に乗るな、珠羽! それでも、この私の夫か!」
屈辱に震えたまま、庚氏は珠羽を罵倒し始めた。口調は、がらりと変わっていた。
茶化して、躰を近づけると、珠羽の長剣が脇腹に突き刺さり、香桜はくっと唇を歪めた。両腕を開き、龍の雲気を思う存分、披露する。金色に光る龍気の恐ろしさを庚氏が感じ取った。どんなに剣が刺さろうと、香桜は朽ちない。天剣を引き抜き、後光の前で構えた。
地上の剣とは比べものにならない。いつぞや相まみえた時、珠羽は本能で恐怖を察していた。
天剣の刃を返し、鋭い刃先をまっすぐに珠羽に向ける。
「俺には山どころか、大地すべてを龍に呑み込ませる所業もできる。証拠に魂魄を、残さず消してやろうか」
下腹を押さえて顔を顰め、ずるりと庚氏は座り込んだ。珠羽が駆け寄った。
「庚氏! 貴様! 俺の妻を!」
振りかぶった剣の攻勢の前で、とん、と爪先が床を打った。香桜はふわりと浮くと、大きく回転して、天井の梁に座り、ニヤニヤと見下ろした。
「これが、神と人の差。あまつさえ、俺を殺そうなどとは。その度胸に免じて、見逃してやる。本来なら、この天剣で魂まで切り裂いて、黄泉にぶちまけてやりたいが、俺は生憎と、天武のような莫迦ではない」
珠羽は庚氏を抱きかかえ、香桜を仰ぎ見上げる。
頭の切れる男だ。当然ながら、威嚇する相手への引き際も、わきまえている。
「ならば、何故、愁天武のような男を好きにさせる! 何故! 俺ではないんだ! 俺は、いつでも取って代わってやる!」
珠羽は喉が裂けるほどに、慟哭した。慟哭と比例して、愛おしい妻を掻き抱く力も強くなる。瞳は水面の如く揺れて、香桜と庚氏を交互に映す。
珠羽の声は、高さも優雅さも喪った、喉が潰れたような声だった。片腕で、庚氏を抱き留め、力一杯、地に拳を打ち付ける。
「楚を焼かれ! 妻を陵辱され! 叔父を惨殺され! ならば俺は、神など神など信じぬ! 俺が信じるのは、己と、庚氏のみだ! いつか、目にもの見せてくれようぞ」
唇を噛みしめ、気を失った妻庚氏を抱き、珠羽は涙を浮かばせた。その涙が零れずに宝玉の如く輝き、ことんと落ちる。
凍っている。それも氷ではなく、凝固しているような感じだ。
(全く、悪戯ばかりか)
香桜は天井の梁から飛び降り、天剣を翳した。
「白龍公主芙君! 姿を現せ! 大切な珠羽を、殺されたくないならな」
瞬間、冷気が押し寄せ、空から舞い降り、小さな竜巻となって、宮を一瞬で冬に叩き落とした。
粒子が集まり、人型を形成する。すらりとした青年が立っている。黒髪を思い切り持ち上げ、皮肉に眼を細め、女性物の貴妃服を愛用し、手で氷を弾ませている。
音もなく降り立った仙人、白龍公主芙君は、ぐいと庚氏を人形の如く抱き、柔らかな四肢に顔を埋める珠羽の腕を引いた。
「捷紀! まだ、嫌だ」
「我が侭を言うなよ。厄介な相手に喧嘩を売ったの、おまえでしょ」
天帝さま、だなどと白龍公主は敬わない。貴人と違って、反乱分子ではないが、奔放過ぎる行動は、人を時折、混沌に突き落とす。
「龍仙一香真君。悪いが、勝負はそちらの勝ちということで。それに、珠羽が天武に殺されては、まずいのでは?」
ふいに珠羽の腕の中にいた庚氏が微動だにした。
「庚氏! 気がついたか」
微かな声がして、庚氏が眼を開けた。ほっそりとした手で珠羽の頬を撫で、一縷の涙を流す。微笑みを口元に残し、懐かしそうな瞳を珠羽に向けた。
「お別れですわね。捷紀が予定通り、迎えに来てしまったから。ごめんなさいね。待てど、あなたとの結晶は生まれないの」
愕然と膝をついた珠羽の腕を、白龍公主芙君が引き上げた。
香桜は策士・庚氏をただ無言で見やり、更に下腹を注視した。
庚氏の腹の子供は、おそらく珠羽との子供だ。狙いは、ただ一つ、楚を滅ぼそうとした天武への復讐だ。庚氏は、楚の子供を秦の王座につけるために、既成事実が欲しかった。その上で、最愛の夫を突き落とし、更に自分への思慕を駆り立てさせている。
赤い毛氈に座り込んだまま、珠羽は言葉を失っていた。
――何という女だ。二人の男の心を、顔色一つ変えずに弄ぶ。
庚氏は落ちたままだった長衣を拾い、肩に引っかけて、白龍公主の手を取った。後で、立ち尽くした香桜を振り返り、涙声で告げた。
「すべては上手くゆく。神も眼を背けるほどの、大罪でも、信じればこそですわ。見逃してくださいませんの?」
天武ではないが、何が本当で嘘かを分からなくさせられそうな目つきは、妖艶さすら感じさせる。
香桜は眼を空に向けた。
「俺は、しがない傍観者でしかない。では、俺の事由も天武には言わないという理由で、手を打とう。面倒ごとは避けたいのでね」
庚氏の愛憐の瞳と、香桜の強い龍眼が交差した。ふっと眼を伏せたのは、庚氏からだった。長い睫が楚々として揺れている。
くっきりとした目元を佇ませ、庚氏は口調を優しくした。
「いいでしょう。私も、夫を哀しませたくありませんもの」
この場合の夫とは、叡珠羽、愁天武のどちらを指すのか。庚氏は背中を向けた。
「捷紀、そこに座り込んだドブネズミを、さっさと駆除して」
「山に打ち捨ててやろうか、クク」
笑いを堪えられず、捷紀は声に可笑しさを滲ませた。その後で、庚氏は聞こえるか聞こえないかの声量で、そっと呟く。
「あなた、誰よりも、愛していますのよ」と。
*
香桜は白龍公主を睨んでいた。
「おまえが、人にそこまで尽力するとは、意外だ。人間を愛し、種を預けた莫迦仙人を俺は裁かねばならなくなった」
ふん、と白龍公主は気にもしない不貞不貞しい笑いを零した。
「裁くなら裁け。そうそう、蛟の眼を抉り取った男が、長城にいる。俺は絶対にご免だが、貴人はクク、長城に向かったと思われる。おっと。俺を呼ぶなよ。遥媛公主山君の婆に会うのは、ご免だからな」
白龍公主芙君こと捷紀は優雅に笑って、珠羽を連れて空に消え去った。夜空に吸い込まれ、氷華を撒き散らして。
春の夜空に、美しい氷雪が舞う。
ぱさり、と長衣が落ちても、庚氏はただ、遠くなる夫を涙目で見つめていた。
「見上げた根性だ。腹の子は、天武の子ではないだろうに」
落ちた長衣を肩に掛け直してやりながら、香桜は囁いた。
「あなたは何が望みなのか。咸陽を取り潰す目的か? 怨恨を捨て、珠羽と、幸せになる道もあった。白龍を手中にしているのなら、逃げても良かったんだよ、すべては、計算尽くか。賢妃・庚氏妃よ」
庚氏は潤んだ目を向け、それはそれはゆっくりと、艶やかに、笑うのだった。
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