幕間――天帝と系譜のゆくえ
やれやれ。想像以上だな。
いとおしさに任せて花芯に逢いに来てみれば、天武の今夜の相手に指名されたと言う。花芯は貴妃であり、それが仕事な以上、何も言えずに香桜は皇宮の上空でたゆたっていた。
「見せる必要はなかったか」
一人で呟いて、クックと笑った。そんな戯れ言も、とても楽しいものだ。
行き違いで、遥媛公主はまた長城に向かった。
お陰で、窘める相手はおらず、思う存分、花芯の淫乱さを堪能できた。
花芯は寝入ってしまった天武を自ら何度も味わい尽くし、最後に唇を舐め上げて、意気揚々と出て歩いて行く。浮かれているのか、少し足が浮いている。
やはり、龍族だな。恐ろしい精力の持ち主。
(天武は、よく女に襲われる。本人は決して女好きではないし、それどころか、籠もって宮殿の増築を考えるほうが充たされる陰気な部分がある男だ)
――まあ、花芯の笑顔が見られただけで、よしとするか。
全く人間は性交に命を懸けるのだから、面白い。
(さて、もう一つの見所があった)
香桜の眼は、庚氏と、匿ったままの珠羽に向いた。そう、あの嵐の日に忍んできた楚の猛将である。
大胆な庚氏は、珠羽を宦官に化けさせ、傍に平然と配置していた。
二人には会話はなく、隙を見て抱き合うといった風情で、声を抑えるために、庚氏は自ら布を口に押し込み、臨んでいた。
空から舞い降りると、香桜は庚氏の宮に足を踏み入れた。
一度、函谷関で刃を交えている珠羽は、武人の格好を捨て、宦官の濃紺の衣装に、手袋。真っ直ぐに手入れされた髪は頭布に押し込めて、髭はすべて抜いたらしい。
珠羽の足が、ゆっくりと止まった。
庚氏の宮には、新たに楚から奪った太鼓が飾られている。珠羽は庚氏を愛した後、太鼓を切なげに見つめているところだったが、香桜の気配に気付き、持ち前の優しげな口調で、靜かに珠羽は呟いた。
「秦の軍師か」
香桜は眼を細めた。
「そんな面倒なモノになった覚えは、一切ないな。天武に殺されるぞ。おまえが殺されては、歴史が動かなくなる」
珠羽は首を傾げたが、それ以上の反論は、して来なかった。
気を探るが、珠羽に心酔している白龍公主捷紀の姿は見当たらない。
貴人も、白龍公主も力が強い上に、同じ龍族。華仙人の力は、人間界でいう騎馬力百万に相当する。特に白龍公主然り自然を操る仙人は、危険だ。
僅かだが、空気が冷えたのも気になる。
「ところで、氷の仙人は、どこだ。隠さなくていい。夜ごとに山脈を全部すっかり凍らせるような男は、俺は一人しか知らぬ。そいつは、悪徳仙人だ。名を白龍公主芙君」
珠羽の凛々しい唇が緩く引かれる。
「捷紀だな。捷紀は俺を逃がし、遠くの空に消えたままだ。元々、かなり気まぐれな男だ。とくに束縛も必要ないと気にはしていないけど?」
香桜は次の言葉を選び、珠羽を注意深く観察した。
珠羽は、平然と宦官の服を着込み、庚氏の宮に居続けた。亡命と言えば聞こえは良いが、女に匿って貰っている現状だ。
それも、叔父の首を取り返しもせず、ただ妻を目指して、敵国の後宮に飛び込んだ。
(自国が秦の手に落ちたのに、随分とあっさりしているな)
踵を返した。系譜では、珠羽は時代を担う一人に名を列挙している。
ふと、珠羽の動作が変わった。廊下をひたひたと庚氏が歩いているのが見える。珠羽は香桜の前から早足で姿を消した。
書簡を抱え、庚氏はご満悦な表情だ。腹には柔らかな布を置き、優雅に微笑んだ。
いつもは漆黒の貴妃服を好む庚氏だが、今日は何故か、薄く伸ばした紫山茶花の縫い取りのある長衣を羽織っている。
香桜は膝をつき、肌身離さず持っている笛を手にして見せた。
「賢妃・庚氏妃、ご挨拶が遅れました。軍師・香桜、ご懐妊の祝いに一曲と思い、馳せ参じた次第です」
聞くなり庚氏は、高くコロコロとした笑い声を上げた。
「先ほど、誰かとお話しされていたようですが」
ちらり、と袖の向こうから、香桜を窺っている。応酬に、艶然と微笑み、香桜は告げた。
「故郷を思いやる余り、夫をドブネズミの如く極秘で飼われるとは」
庚氏の表情から笑いが消えた。
瞳は赤く染まり、口元にはうっすらと悪魔の笑みを浮かべている。策士の顔だ。
「ほほ、本当に大きなドブネズミでしたのよ。楚から逃げて来た、みっともない姿のね」
庚氏の宮殿は楚に倣って天井が高く、しっかりとした作りだ。版築された壁には茶色の塗料が差し込まれ、あらゆる武器が壁に塗り込められていた。
背後で剣が擦れる音がした。
「妻が夫を捕獲するのは、道理ですの。香桜さま、とっても残念ですわ」
悪女の唇から微かに笑いが漏れると同時に、香桜は右肩に刺さる剣に気がついた。
鮮血が噴き出る。剣を振り下ろしたのは、珠羽だ。眼の前で、庚氏は残念だという憐れみの視線を投げかける。
「貴方さまの笛の音は、好きでした。真実ですわ。珠羽! とどめを刺しておやり」
俺を殺す? 愉快だ、愉快すぎるっ。香桜は、クックと肩を揺すって見せた。
(天帝が、少ぉし構ってやるぞ、莫迦夫婦)
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