斉の王太子――共に愛おしい女のためだけに生きる

 長城は毎日少しずつ延びていた。罪人の骸を呑み込み、塗り固められて延びてゆく長城。秦を囲み、恐らく斉や楚まで。

 領土を確保するがため、日々人足は運ばれる。

 花朝を代表する玉蘭、連翹、柳の葉の芽生える新緑の匂いが更なる春を呼ぶ。碧桃の花びらが、間もなく空に舞う嘉節。

 自然の美しさに比べ、人間の残酷さは眼も当てられない。人足は裸足で、手足を拘束されて歩かされて連行される。

 長城に近づくに連れ、よく見る光景だ。


 秦の長城上空。遥媛公主は空高い場所に浮かび、巨大な紫綬羽衣をたなびかせ、長城の工事の様子を見下ろしているところだった。兄、斉梁諱を見守っているけなげな背中に香桜は柔らかく、声を掛けた。


「また長城(ここ)にいたのか。遥媛公主」


 香桜に気付いた遥媛公主は、ゆっくりと振り向き、口元を緩めた。


「分かってはいるのですが、何となく足が向くのです。後宮はいかがですか」

「咸陽は庚氏の懐妊騒ぎで持ちきりだ。もしや、兄を助けるつもりか」


 些か口調がきつくなった。(俺と敵対してまでも、か?)言えぬ言葉が溜まってゆく。

 遥媛公主が遥姫に揺さぶられ、同情しているのも、もはや分かっている。


 ――邪魔はするなよ、遥媛公主山君。


 本心を見抜かれぬよう、香桜は思考を閉じた。遥媛公主は優雅に微笑む。

 大丈夫だ。いつもの遥媛だ。

 安堵の吐息を吐き、香桜は遥媛公主と向かい合った。


「そんなことをしたら、私が華仙人だと、ばれてしまいますわ。斉梁諱はすべての人夫を逃がすと。その準備は着々と進んでおります。梁諱は一人だけ助かる気はないのですわ」


 子供の如く膝を抱え、遥媛公主は髪を揺らす。毀れた紅髪に指を這わせると、遥媛公主は眼を大きくして香桜を見つめた。


「終わったら、一緒に帰ろう。系譜の狂いが止まれば、自ずと私たちも解放されよう。天武の種が、きみを狂わせた。どうしてあの男の体内の種など受け止めた。そこまで淫乱な女ではないだろうに」


 遥媛公主は首を靜かに振り、泣きそうな瞳を香桜に向ける。


「天武が、そうさせるのですわ。仙人として欲など超越したはずの私の僅かな欲を膨らませ、愛してやりたいと思わせたのです。でも私がお慕いするのは龍仙一香貴方様だけです」


 ふいに睫を揺らした遥媛公主が愛おしくなった。

 遥媛公主の赤い睫。綺麗に縁取られた目元も、その奥にきちんと座った瞳も、とても麗しく思う。体温のない腕に押し込めた遥媛公主の躰も冷たい。

 華仙人には体温を感じ合う感覚がない。

 体温を感じ、高揚するもなく、ただ、愛おしいと理解する。

 抱擁はいつしか終わり、あれから無言で、ただ、成り行きを見ていたが、ようやく遥媛公主は斉梁諱から眼を離した。


「そろそろ戻らねば。天武が私の札を引いたら、また、おぶわれてお相手ですわ」

「ごくろうさま」


 本当であれば、ずっと兄を見ていたかっただろう。しかし遥媛公主は愁天武の貴妃・淑妃の立場が在る。あまり宮を不在にはできない。天武に気付かれれば、貴妃の裏切りの罪状で、極刑が待つ。斉の美女遥姫としての運命も、また全うしなければならない。

 夕刻になり、皆が去っても、斉梁諱は一人で黙々と土を運んでいた。


「兄を頼みます。咸陽承后殿に戻ります」


 嫋やかではあるが、どこか物憂げな口調で告げて、やはり羽衣を使い、遥媛公主は瞬く間に空に消えた。空は橙に染まっていた。後に待つのは、星々が無数に輝く夜空。

 やがて月が昇り、斉梁諱を照らし出す。長城は月光に照らされ、白亜に変わっていった。

 嗚呼、とても月が美しい。春の月は、ぼんやりと霞んでいる。

 眼を細めて見上げていると、不意に遥媛公主の悲しそうな美しい表情が甦った。

 こりこりと笛で頭を掻き、香桜は目下に視線を向けた。

 足元では、蟻に似て男たちが群がって、塀をよじ登って、固めているのが分かる。

 その集団の中に、斉梁諱も混じっていた。


 斉梁諱は傷だらけになりながら、一人で板に載せた土を運んでいる。


 誰も手助けはしないらしく、劉剥だけが斉梁諱をただ、監視していた。乱暴狼藉はなくなったものの、太子という身分が更に斉梁諱を苦しめているのが分かる。


 夜になると、全員が去った。


 ようやく長城に座っていた劉剥が動いた。役人衣装を捨て、さらしを巻いただけの上半身で、一緒に土を載せた板を引き始めた。


 会話は聞こえない。

 后戚との再会だけを心の支えにしている漢の男、劉剥。

 故郷に親友の姫傑と妻の褒姫を置いて尚、責任から逃れられない斉梁諱。

 劉剥の言葉に混じるのは〝后戚〟。斉梁諱から混じるのは〝褒姫〟。共に愛おしい女のためだけに生きる男たちは、視線を合わせ、何を話すのだろう。


 一言か二言、交わしたあとで、劉剥は落ちた食事代わりの団子を拾い、斉梁諱に手渡した。斉梁諱は久方ぶりに食事を口にし、ようやく微笑みを見せる。


 なぜか無性に、花芯に逢いたくなった。


 憎まれていても構わない。龍族の寿命は長い。強情な娘を堕とすくらいの刺激が、逆に嬉しいくらいだ。


「勝負を懸けるか」


 今であれば、天武は手一杯で、花芯を相手にする余裕などないはず。


 月夜の長城では、劉剥と斉梁諱が肩を並べ、相変わらず、何やら話している。

 聞くことはない。香桜はそっとその場から引き上げた。

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