斉の王太子――楼閣のようでいて、砦のようで

 凄まじい狂気の渦に放り出され、斉梁諱はただ、自分の置かれた状況を把握しようと、首を絶えず振っていた。

 やがて、嵐は去った。壁に頭を打ち付けた斉梁諱は、靜かになったが、男たちは足を上げ、蹴り殺そうとする。

 劉剥の罵声が飛んだ。


「そのくらいにしろ! 死なせるたぁ、俺が許さねえ! 土持って、どっか行け!」


 劉剥に逆らえない男たちは斉梁諱に唾を吐き付け、ぞろそろと土を掘り返し始めた。

 姿を現した香桜を見るなり、劉剥は瞠目する。


「おやァ、龍様じゃねえか。アンタ、よく、こんな汚え場所で会うな」

「まさか天武に尻尾を振るとは思わなかったよ、李劉剥」


 ナニ? と劉剥が眼で唸った。相変わらず元気な男だ。笑うと怒る、怒ると凹む。

 切り替えの速さは、翠蝶華によく似ている。怒号と共に、背中から龍気が立ち上る。


「誰が、尻尾なんぞ振るか! 俺は、あの翠蝶華に救われたのが、ムカつくだけよ。意地でも這い上がって后戚を迎えにゆく。それまで、性欲を溜めて溜めて溜めまくって! んな活き活きした眼ぇすんなよ、龍様。あんた、好きモノだなァ」


 ずばりと思った言葉を口にして、劉剥は無意識に眼の下の大きな傷を何度も撫でて笑ってみせた。

 香桜は上唇を舐め、肩を竦める。


「すまない。俺は劉剥のそういう部分が大好物でね。イソイソするんだ」

「そういや、后戚は元気か? 大変だろ、あの女。気が強ェ強ェ」


 名を舌に乗せると同時に、愛しさを込めたような切ない光を称え、劉剥は肩を竦めた。

 后戚とは、劉剥の内縁の妻だ。逃がす際には龍の女だと言い切り、劉剥をずっと待つと豪語した過去を、香桜はふいに思い出した。


 確かに気が強い。しかも、男の立て方を知っている。だからこそ、劉剥は愛するのだろう。対して、翠蝶華は男を立てるどころか、どん底に落とす。男であれば、翠蝶華より后戚を選びたくなる。そう考えると天武は、とてつもなく天邪鬼だ。

 香桜は、にっと笑った。劉剥の嬉しそうな顔に、釣られて顔が綻ぶ。


「ああ、いい女だ。たっぷり仕込めば、女は決めた相手にだけ足を開く。どこだろうと抱きつくさまは、見ていて爽快だ。上手いことやったな」

「天帝龍仙一香真君。いい加減になさったら?」


 笑いながらも怒っている遥媛公主の視線が痛い。ひゅうっと劉剥が口笛を吹いた。


「また、別嬪を連れて。あんた、女に泥試合を見せるのが趣味か?」


 女好きたる所以か、今度は遥媛公主に興味を示し始める。



 ――傍に貴人はいないようだ。



 香桜は空を見上げ、長城を眺めた。人足たちは、呻きながらも土壁を作っていた。

「何だか知らねェが、長城の奴隷を見ろってさ」と劉剥はぼやき、「月が出てんぞォ、止め止め」と囚人たちの手を止めさせた。声に斉梁諱が眼を開けた。


「っつっ!」


 劉剥が気付いて、泥だらけの腕を掴みあげて、力の入らない足を蹴り飛ばした。


「野郎。相当いい身分してやがんなァ? あちっ」


 ぽ、と尻に火がついて、劉剥は手で慌てて尻の火を消した。ふん、と遥媛公主は顔を背け、扇の向こうから、眼を細め、長城を眺めている。

 広い夜空の下に、どこまでも続くかのような壁は楼閣のようでいて、砦のように見えた。

 道を伸ばしているのか、少しゆくと、紐だけが延々と続いている。紐に沿い、土が盛られては固められてゆく。それだけの繰り返しだ。

 遥媛公主はそっと倒れた斉梁諱を揺り起こし、袖から妙薬を取り出して、口に含ませた。

 うと痛めつけられた喉を押さえつつ、斉梁諱は飲み下す。

 ややして顔色が戻ってきた。ほ、と遥媛公主は胸を撫で下ろし、聖母のような微笑みで兄の斉梁諱を見下ろした。


「大事には至らなかったようだな」


 そういえば、斉梁諱は俺の姿を見ても遥媛公主の仕草を見ても、驚きやしない。香桜は斉梁諱の気を辿って、耳を澄ませた。

〝眼を手中にした。姫傑なら、褒姫を護る〟

 眼? 香桜の脳裏に、片眼をなくし、眼窩に血を噴き出させた貴人の顔が浮かんだ。 

 劉剥は瓢箪を振り回して長城を昇って行き、遥媛公主に支えられた斉梁諱は、ようやく立ち上がった。


「仙薬が効けば痛みはない。秦でなぜ逃げぬ? 故郷には、愛する妻もいたろうに。ああ、失敬。ちょっと心の声が」


 そうか、と斉梁諱は呟き、二人を見つめ、視線を香桜の上で留まらせた。


「仙人の眼を抉ったから、天が怒ったのだ。それでも、友に運命を託せた。姫傑なら大丈夫だ。俺は俺のやるべきことがあると信じて、秦に来た。太子として、兄として、済まなかった。遥姫」


 また遥媛公主の瞳が揺らいだ。


「貴人の眼を? どうやって」


「数人がかりで捉えて、腹を殴った。相当に弱っていたみたいでね。剣の折れた先端で、根こそぎ奪った。趙からの文書にあった。と」


 また、ねじ曲がって伝わっている。正しくは眼ではなく、龍眼であり、目玉を指すものではない。殷の王は仙人の力で殷を従えたと言ったつもりが。

 香桜の過去の酔っ払った時の一言が、仙人の伝承に関わってしまうとは。


(俺、功夫が足りていなかったからな楽しい行事しか、しなかったし)


 歴史を狂わせるために、殷の王として動いたが、盛大に失敗をした。

 今回は一人の歴史無き笛吹きとして傍観するはずが、気がつけば歴史に踏み込んでいる。

 歴史とはいかにして恐ろしいものか。歴史は、なぜある、終焉はどこにある。意図は分かっていない。 


「貴人の眼はどこに? あれは龍族の命と同じ。奪われた仙人は死ぬ。返してやりたい」

「俺の無二の友人が持っている。女好きで無骨で莫迦な趙の太子だ。姫傑なら、きっと秦を打ち倒す。仙人を従え、信じ、手中にする。古来より、斉の山には仙人が棲むとされる。遥姫。俺は、おまえが思っているような、綺麗な男じゃないよ」


 遥媛公主はしゃがみ込み、袖で斉梁諱の顔の泥を拭っている。香桜は考え込んだ。

 貴人は汚れ仕事も厭わない蛟の仙人だ。


 ――眼欲しさに、変に人間の抗争に手を貸す怖れがある。早めに手を……。


「お兄様、今後は、どうするおつもりです?」


 斉梁諱は続く長城を睨み、きっぱりと言った。


「斉に戻るよ。帰りを待つ愛する妻がいる。ただし、私が逃げれば、斉は亡びる。おまえも、人質の意味をなさなくなる。であれば、道は一つしかない」


 斉梁諱の眼は、常に劉剥に向けられていた。何らかの気迫を感じたのだ。

 劉剥はと言えば、長城の先端に座って、欠伸なんぞをしている。どこでも暢気な男だ。


「天龍がついている。こんな重労働は無意味だ。私はこの者ら、全員を逃がす」


 劉剥の欠伸が途中で止まった。


「さすれば、私も斉に戻れる。まあ、もう斉で暮らせはしないから、褒姫を連れて趙へでも行くか」


 遥媛公主の顔色が変わった。

 斉梁諱が大事を起こせば、恐らく処刑されるのは遥媛公主。

 天武は斉の反乱のカドで、遥媛公主を極刑に処すだろう。


(さあ、どう出る、遥媛公主よ)


 だが遥媛公主は背筋を伸ばし、毅然とした横顔を向けていた。

 遥媛公主の声と、遥姫の声が二重に香桜に届く。驚くべき叫びに、香桜は覚悟を決める必要を感じた。


〝兄に幸せになって欲しい〟

〝ならば、おまえたちを助けてやろう〟


 香桜は眼を伏せた。系譜がある以上、どんな歴史の狂いも許されない。


 遥媛公主は斉梁諱を生かそうとし、斉の滅亡を防ごうとする。それが香桜の意図に反しても。殷王朝より永年に亘って連れ添った縁が、間もなく切れる事実も厭わず。


 遥媛公主山君の性格は知っている。香桜は覚悟を決めた。

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