斉の王太子――人間は時折、我らより残酷
「私は斉梁諱。斉から来た……何をする!」
押さえつけられ、斉の砡と剣を奪われ、髪を毟られ、梁諱は官吏を睨み上げた。官吏はへっと嘲笑って、凶悪な笑みにはそぐわない朗々とした声音で言い放つ。
「奴隷に武器は要らねぇよ。俺は、てめえみてーな気取り屋が大嫌ぇだよ」
斜陽に照らされた長城の先端から嘲ったような、人を食うような声が響く。
(劉剥じゃないか!)
分からなかったのは無理もない。劉剥は髪を切られ、髭をも剃られ、雑巾のような解れた狩衣ではなく、役人の格好で、長城の崩れた壁に座っていた。
「奴隷? 私がか? 聞いていないぞ! 私は斉の太子として、秦に行けと王より」
「斉の太子? ここじゃ、そんな大層なモン、クソの役にも立つかよ」
梁諱の表情は既に恐怖に染まりかけている。
太子の斉梁諱は、恐らく労働や、奴隷を知らない。
「おい、兄ちゃん。こっからは地獄を楽しめるヤツが生きられる。死人の団子を食える覚悟のあるヤツだけが生きられる。おまえら、太子さまにちいと教えてやったらどうだ」
奴隷たちが梁諱を囲み始めた。武器を奪われ、地面に押しつけられた囚人を待つのは、囚人による私刑。斉梁諱は応戦しようとした。しかし、武器がなく、戦えないまま、濁流に呑まれてゆくしかなかった。四肢は血と泥に塗れていった。
空で見守っていた遥媛公主が、小刻みに震え出したのを、香桜は横目で捉える。
「遥媛公主。堪えるんだ」
「しかし! ああ、見ていられません! 全員、燃やして……っ」
片足を踏み込ませ、扇子を振り翳した腕を強く掴んだ。
麗しくも悲しい目元から、涙がこぼれ落ちる。余裕のない震えた瞳は天界を謳歌する女華仙人の物ではない。
「離して!」
――これは遥姫か?遥媛公主が呑まれている?
香桜は遥媛公主の肩を掴み、揺さぶった。
「遥媛公主! これも、必要な事象だ。何があろうと、手助けは俺が許さない。俺の言うことが聞けないのか? 誇り高き火の女華仙人、遥媛公主山君よ」
尊き声音が響く中、遥媛公主の喉からヒューと音が漏れた。ぱちくり、と何度も長い睫の生えた瞼が上下した。落ち着いた大人の瞳が潤んで瞬いた。
流れた涙を拭い、遥媛公主は唇を噛んだ。呑まれていた現状に気付いたらしい。
「地上に毒されたな。感情的になるなど、らしくもない」
遥媛公主は瞠目し、香桜の前で、初めて不安を口にして見せた。
「天に帰りとうございます。あの程度の場面で揺らぐなど……っ! 私は、しばらく籠もりたいほど恥ずかしいですわ。そうして下さいませ。遥媛は、しばらく天界で修行を」
「まあまあ、そこまで自分を卑下しなくていいよ。凄いな、太子が、まるで豚だ」
梁諱は手厚く歓迎されていた。突き飛ばされ、髪を掴まれて泥に突っ込まれ、溺れそうになった梁諱に、別の男が蹴りを入れる。
無抵抗な豚の如く転がった顔は泥だらけで、口の泥は吐き出しても、次々に突っ込まれ、歯を茶色に染めた。
「人間は時折、我らより残酷だから」
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