斉の王太子――斉梁諱と遥姫

香桜が見つけた時、遥媛公主は、川縁にしゃがみ込んでいた。


「遥姫が暴れるのですわ。お兄様が近くにいらっしゃると」


 遥媛公主の額には、脂汗が浮かんでいた。純粋な華仙人と違う遥媛公主は、器を食って巣くう容だ。かつて、その借躰法で殷の悪徳貴妃に成り済ました時代もある。


「斉梁諱に天武は逢わないそうだ。門前払いを食らった」

「莫迦な! どうして!」


 香桜は先ほどの斉の書簡を読んでいた天武の言葉を思い返した。


〝太子と公主を差し出す代わりに、領土を寄越せと言って来たわ〟


「最初から、天武は逢うつもりなど一切なかった。斉を滅ぼすのに、斉梁諱の存在は脅威だ。だが、実際は違う。遥媛、気付かないのか」


 解れた髪を手早く直しながら、遥媛公主は首を傾げた。白い首が燦々と降り注ぐ太陽に晒されている。赤い髪は陽に透けて黄金に輝いていた。


「時折そのように含んだ言い方をなさいますが。貴方さまと天武は、良く似ていますわ」


 遥媛は優しく微笑むと、ちらり、と香桜を見やった。


「少し、優しくなったかい?」

「まあ、失敬な。天帝と言えど、その発言は見逃せませんわね。兄に挨拶に参ります。天武が逢わないのであれば、早々にお帰り願わねば」


 ふわりと足を空中に浮かばせて、遥媛公主はすぐに地面に降りた。


「俺も行くよ」


 遥媛公主と並んで歩いていると、殷の時代を思い出す。

天武しか知らないはずの秘密の回廊を遥媛は知っているらしく、複雑に入り交じった道から、皇宮への道を見つけ出した。


「こっちですわ。四季折々の天空の動きに準えてございますの」


星の動きを取り入れた配置は、神であるからこそ、許されるものだ。


 それに、あの、陵墓墓にどうして城壁が必要なのだ?


(天壇、回廊、陵墓……。天武はもしや、天と地と地獄を作るつもりか?)


 考えが纏まりそうで纏まらない。思慮を深める香桜に心配そうな遥媛公主の声音が届く。


「香桜さま、兄はどこへ」

「恐らく、皇宮の正門。咸陽承后殿には入れないつもりだ。先ほどは陵墓から掻き集められた男が死んだ。迂闊に立ち入ると、怪に当たるぞ」


 そんなもの、と言いたげに、遥媛公主は正門を歩き、足を止めた。


 斉の旗が折れて捨てられていた。


 遅かった! 秦に呼びつけられ、遠路をやってきて、斉梁諱は騙された陥穽にも気付かず、人足として調達される。遥媛公主は唇を噛み締め、正門を駆け抜けようとした。


「遥媛公主、貴妃が咸陽を出てはならぬ!」

「お兄様ぁっ!」


(おかしい。遥媛公主が取り乱している?)


 見ていると、遥媛公主は動きを止め、がくりと膝をついて見せた。


「遥姫騒ぐな私に逆らうな私は天の華仙人ぞ! 解るかそなたとは違う!」


 麗しい唇から、獣の声が漏れる。だが、その刹那、遥媛公主はまた走り出した。

 咸陽を抜け、函谷関に続く軌道を走り続ける。

 見ていられない。天龍を呼び、香桜は龍に飛び乗ると、遥媛公主の腕を引いた。


「きみらしくない。兄に逢いたいなら、俺が連れてゆこう。この先に、たくさんの人足の気配がする。遠く微かだけど」


 言うよりも早く、遥媛公主の赤い髪が空中に舞った。


「お兄様!」


 龍から飛び降りた遥媛公主の姿は、後に壁画になる。


羽衣を波打たせ、風に賺しながら、遥媛公主は人足の前に舞い降りた。


斉梁諱の瞳と遥媛公主の瞳は、同じ鳶色だ。番(つがい)の如く、二人は見つめ合った。


「知らなかった。きみは天女だったのか、妹よ」


 相変わらずの斉梁諱の落ち着いた声が、遥媛公主を包み込む。


斉梁諱と遥姫。遥姫が遥媛公主として、秦に輿入れしてより、七年が経っていた。

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