斉の王太子――出て行け。話は尽きた

 劉剥は香桜に気づきはしたが、相変わらず口を噤んでいた。

話したいと思った。前回に逢った時は、貴人の悪戯で、ろくに話もできぬままだった。


(かと言って、天武に知られるのも厄介)


 結局、話は一切できぬまま、時は過ぎた。

 しかし、当の天武はというと、翠蝶華を切りつけた落胆からか、肩を落とし、香桜を書斎兼寝室に呼びつける時でさえ、声を沈ませていた。

 一切翠蝶華の名前は出さず、黙々と軍務の話に没頭している。


「そなたは、軍師の地位を何と心得ておるのだ。楚では見事に数万の軍を率いた。戦いはせずとも、そなたの働きは大きい。だからこそ、軍師の称号を与えた」


その勝手に与えられた軍師の称号のお陰で、散々な目に遭っている。


「では次は、どこを狙いましょう?」


 聞いた途端、天武は顔を顰めた。


「遊戯のような言い方をするな。残すは斉と趙。楚は、しばし見送る。趙に間諜を放ち、斉に関しては一つ手を打った。返答がここにある」


 天武は言い切り、垂れ目がちな瞳を瞬かせると、相変わらず山になっている書簡から、漆で塗り固めてある上等な書簡を引き抜いた。

 派手な音を立てて他の書簡が床に散らばるが、ものともしない。


「斉の王の密書だ。太子と公主を差し出す。代わりに、領土を寄越せと言って来たわ」


 喚くなり机をガンガンと叩き、現れた宦官に「燃やせ」と書簡の処分を申しつける。

香桜とすれば、野蛮に首を飛ばす話よりも、庚氏との蜜な夜を聞きたいところだ。芍薬のような雰囲気で、中身は悪女とは、なかなか恐れ入る。


(天武の精子は何ヶ月も生き延びるとか?)


 興味深い事柄は、たくさんある。だが、答を捥ぎ取る瞬間、自分の首が落ちる。

斉の図の入った大型の竹簡を広げ、天武と香桜は、胡座を掻いている。天武は書簡を並べ、丹念に地図を書刀の柄で追っていたが、海上で、書刀が止まった。


「なんだ、海匈奴とは」

「いわゆる海賊です、天武さま。死者を出す海月が大量に流れ着きます。そういった情報を引き出すために、斉梁諱を呼んだのでは? そろそろ、斉の太子にお会いなさったほうが宜しいのでは」


「では、やはり、山越えか」


 斉梁諱の話から、なぜか天武は逃げる。自分から吐露するタイプではない。きっかけから、会話の重要な欠片を見つけるしかない。策略頭が動き出し、香桜は仕掛け始めた。


「宮妓一同で、庚氏さまにお祝いを差し上げたいのですが、取り次いでもらえますかね」


 天武の眉が、ぐっと上がった。これ以上は話さない時の反応だ。


「陸睦の白起戴冠は、いつ頃のご予定で」

「早々に執り行う。そなたの仕事も増やすぞ。私の書簡の内の軍務整理と編制だ」


 藪蛇である。天武は顔を上げず、最低限で答えている。興味がないと見なせる。


 ――とすれば、別の角度で。


「そういえば、斉梁諱と遥媛公主は兄妹でしたね。せめて、再会を」


 はっと天武の手が止まった。地図の泗水をなぞったまま、動かなくなった。


「そなた、遥媛公主一派か。商人のはしくれであったか」


 遥媛公主、だな。――一派とは意味が分からないが。


 目星はついた。天武が斉梁諱に逢わない原因には、遥媛公主が絡んでいる。そもそも斉を進軍する直前で、太子を呼びつけ、逢わないなどとするほうがおかしい。


「作戦に必要なんですが、なぜに斉梁諱を? もしや、遥媛公主のためですか」


 天武は答えず、書簡を纏めて天秤に載せた。たちまち天秤は傾き始める。



「出て行け。話は尽きた」


 つまりは、話をする必要はないと? 香桜は怒りを感じたが、すぐに引っ込めた。

さわさわと音がして、庚氏が歩いてくるのが見えた。


「まあ、先客でしたか。夫の顔を見に来たのですけれど」


 天武の顔がげっそりしたのも構わず、庚氏は黒い面紗を引き、にっこりと微笑んだ。


「まあ、素晴らしいお竜顔。書簡をお返しに来たのですわ。天武さま。天武さまがお留守の時、宮殿にとても大きなドブネズミが現れましたの! 怖かったですわっ」


(ドブネズミ? それは、もしや)


 ああ、と顔を覆って、庚氏は天武の胸に飛び込んだ。天武は不愉快そうな表情の中に、理解したというような雰囲気を醸している。


「それで、そなたの回廊が、あんな泥だらけに。随分と大きな鼠であったな。そう言えば、幼少に苛立って、鼠の尻尾を踏み切った。鼠は尻尾を引くと面白い。痙攣し、頸椎を脱臼して死ぬぞ」


「まあ、ほほほ、では今度また見つけたら、引っ張って差し上げましょうか」


 かんらかんらと笑っているが、庚氏の言うドブネズミとは、恐らく忍んできた夫の叡珠羽の揶揄だ。

 しかし、自分の最愛の夫をドブネズミだなどとよく、言えるものだ。


 ――そうか。そういう事情か。


 香桜は庚氏を見つめた。天武に取り入り、正妃を射止めた楚の庚氏。


(恐らく、珠羽はこの宮中にいるのだ。幾度となく逢瀬を重ねている)


 距離から考えると、恐らく庚氏の宮だ。庚氏や遥媛公主、殷徳、花芯貴妃の称号を与えられた女たちは、外には出られない。宮殿からの出入り口は唯一、皇宮と繋がっている明道だけだ。外に出ようと画策するならば、承后殿の皇宮を抜け、正門から出るしかない。


(では、庚氏は珠羽を、どう逃がすつもりなのだ?)


 そうだ。珠羽に惚れ込んでいる白龍公主芙君の姿がないのも気懸かりだ。


香桜は庚氏を睨んだ。


楚を滅ぼし、無血開城を促すためだけに天武と花芯を楚へ導いた。書簡を利用し、武闘派の項賴を消し、若き王の血筋を絶たせた。  

 香桜の視線に気付いた庚氏が芍薬をかなぐり捨てるかのような炎の眼を向けた。



「笛を、お聞かせ願えません? 天上の音色と噂されております軍師の音に、酔いしれとうございます」



 音色は咸陽を超え、長城に向かう劉剥にも届くほど、世界を包み込んでいった。

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