斉の王太子――愛する男の前で舞え

「天武さま、今宵の貴妃をお決めくださいますよう大切なお仕事でございます」

嫋やかな口調を敢えてきつく変え、李逵はまっすぐに反論させまいと、瞳には強い決意の青い炎を滾らせている。

皇宮事務に取り立てた李逵は、几帳面な性格もあってか、責任感が強い。

広大な後宮の面倒な貴妃の公務は、李逵の采配あってこそだ。

しかし、意外だった。天武の中では、もう後宮公務はないものになっていた。


「今札と飲み物をお持ちいたしますので」


 ぴく、と天武は肩を震わせた。


「庚氏がややを懐妊しているなら、不要ではないのか」

「確定ではない以上、お続けいただきます」

「嫌だ。意味をなさぬ」

「いけません」


李逵は普段でもはっきりと物を言うが、今日はいつになく強く窘めてきた。


「今や後宮の貴妃たちは、一つの勢力です。後宮自体に貴妃の派閥がありますゆえ。天武さまは上手く渡り歩く必要がございます。ですので、札を一切わからぬよう攪拌させていただいております」


「私は王ぞ! 後宮なぞ、知るか!」


 李逵は新婚で、青年まっただ中の瑞々しい雰囲気がある。


「ややができたと聞いて、動揺するのは、当然です。天武さまは、男として当然の」

「やかましい。後宮に派閥?」


「殷徳さまには、元燕と華陰の宦官が、庚氏さまには秦の古兵が、遥媛公主さまには商人たちが、花芯さまには秦の王族たちが後援として動いておられます。夜のお相手ののち、彼の者らは、お祝いを申し上げる有様で。中でも、庚氏一派は、多くが秦の古兵です。地方豪族上がりもおり、大いに潤っております。彼の者らを無下にしてはなりません」


 天武は驚きで声を掠れさせた。


 ――後宮が今や反対勢力? 考えてもみなかった。


 殷徳と庚氏の回廊での激しい罵り合いを思い浮かべ、王とは自由ではなかったのかと、天武は嘆いた。嘆いたところで、情けないが、拡がりすぎた後宮は手に負えない。


「分かった。では、札をさっさと用意しろ!」


 いわば投げやりのやけくそで告げたところで、入口の呼び鈴代わりの鈴が鳴った。


「様子を見て来ましょう。間に札をお選びください」


 李逵は、仕事はできるが、少々口うるさい。過去の天武なら、李逵を迷わず始末した。いつからか、屠る行為に躊躇を覚えた。

 趙を飛び出した時には、武大師の隗のみだった。朱鷺に乗った天武はまだ小さく、秦育ちの武大師は夜通し天武を支え、亡命した。

 今や、李逵、奔起、陸睦、武大師、慣老、裏切らないであろう、信頼できる者は増えた。


 天武は頭を振った。信頼に寄りかかれば、弱くなる。覇者には金輪際なれぬ。

言い聞かせたところで、宦官と話していた李逵が戻ってきた。


「正門に、奴隷が集まっているそうです」


 秦の民の特徴だ。下層の話には、すぐに眉を顰める。天武は足を回廊に向けた。

「そやつらは、私の命令で再び咸陽に連行した罪人だ。大半が華陰の男供であろう」

「罪人を! なにゆえでございますか」


 驚き、聞き返そうとする李逵を遮り、天武は眼を空に向けた。


「約束があるのだ」


 空に蠢く龍は大きく見えている。咸陽に、ヌシがいるとの証拠だと、天武は眼を細めた。

                   *

 咸陽の正門を見た刑罰者の一人がまず、唾を吐いた。続いて、次々と唾が飛ぶ。

天武には見せられないと、陸睦が長剣を引き抜き、馬の脇腹を蹴り、俊足で駆け抜けた時には、何人かの男の死体ができていた。


 天武が到着した瞬間は、陸睦が血のついた剣を仕舞ったのと同時であった。天武に見つかった陸睦は叱られた子供だ。狐眼をしょぼんと垂れさせた。


「奴隷が咸陽の正門に唾を」


 天武は飛んできた唾を剣で避けた。警史に囲まれ、両手を繋がれているため、唾を吐くしかできないのだ。漢の男女は、品がなさすぎる。


 脳裏で翠蝶華が背中を向けた。天武は叩き上げられた長剣を抜き、手前にいる男の首を刃先で持ち上げる。


 どう見ても遊侠ではない怯えように相手にするのをやめた。


「おまえたち、どうやって遊侠たちを掻き集めた」


 は、と将の一人が進み答える。


「命惜しくば遊侠は進み出よ、ですが」


 納得が行った。恐らく助かりたい受刑者が紛れた。また唾が飛んできた。


「大したものだな。まだ元気な者がおる。さすがは荒くれ者の華陰の遊侠どもよ。しかし、私はおまえたちを一時、解放しようと決めてきた」


 一時ふっと唾が止む。だが、怒りは膨れるばかり。天武は慟哭した。


「冬を越え、生き残った蟲のような生命力ならば、極寒の長城も作れるであろうて。建設予定の秦の長城へ連れて行け! よくも私に唾を! いつまで死体を放置する!」


 飛び上がった役人により、倒れ動かなくなった死体が運び出されてゆく。警史は紐で繋いだ受刑者たちを引っ立てて消えていった。


 ――さて、困った。やはり、李劉剥の判別がつかぬな。


 眼の前をぞろぞろと歩いてゆく表情には、希望など欠片もない。


「李劉剥はいるか。助けてやる」


 幾人もが手を上げた。話にならない。本物がやすやすと手を上げる理由もない気がする。


(やはり、翠蝶華に首実検させるか。だが、劉剥を見た翠蝶華があの麗しい頬をぽっと桃色に染めた瞬間、私が叩き斬る怖れが……)


「舞わせればいいんじゃない?」


 暇な香桜ががさりと木々を揺らし、顔を覗かせた。


「朝議にも出ずに、いい気なものだな、得体の知れぬ身分で、爵位を与えられた事実を、よもや軽じておるとは」


 香桜は肩を竦め、いつもの飄々とした口調で続ける。


「作戦を練っていたんですよ」


 天武は背中を向けると、遊侠たちを睨んだ。だが、痩せこけた上に死相が浮かんでいる。その上べっとり泥塗れで、どうしようもない。

 将の一人が皇宮に消え、なみなみと汲んだ水を抱え、戻ってきた。激しい水音と共に、受刑者は水晒しになる。泥は落ちた。では、天龍の気はどうだ。


 見上げると、悠々とした龍が蛇行するのが眼に見て取れた。


 似たような傷をつけているお陰で、顔の傷の特徴は皆無。莫迦にしているのかと怒鳴りつけたくなったところで、女の足音がした。

 振り返れば、仏頂面の翠蝶華の姿があった。


「香桜、これはどういう事情ですの? 仕事があるからと来てみれば。随分と泥だらけな」


 目線を止め、翠蝶華は折扇子を落とす。膏薬を貼った頬を向けて、天武は命令した。


「舞え。そなたの姿で、劉剥がおるか分かると香桜が言うのでな。それに、遊侠たちにもいい餞になる」

「え、ええ。引っ掻いたお詫び……」


 翠蝶華は非常に分かりやすい。紅の長裙を揺らし、今日は剣ではなく、扇子を掲げている。春の舞いだ。柔らかな四肢が回転する度、華が咲きそうな緩い動き。

 しかし、眼は一点に釘付けになったまま。当たりはついた。正門の右の一角から翠蝶華の視線は外れていない。


「陸睦。正門後の遊侠らしき男を全員、引き立てよ」


 隣でぼけっと舞を見ていた陸睦は正気に返り、頷いて、馬を下り、やがて二十人ほどの男を天武の前に引き出した。

 天武は更に眼を凝らし、一人の男の表情から、過去を思い出す。


(そうだ、馬ごと突っ込んできて、傷を負わせた顔を、見たはずだ。強い瞳は、かつての燕の武将にもひけを取らなかった)


 引き出された男を舐める如く見つめては視線を外す。顔に傷があるというだけでは、分からない。もっと強い、強い瞳があった。


 生きる艱難辛苦も躊躇しない、かつての自分と同じ輝きは、珠羽にも、劉剥にもあった。

 七人目で、心臓が大きく撥ねた。


 ――この顔だ!


 遊侠の中でも、小柄ではあるが、人一倍、眼が鋭い。


「こやつを縛り上げよ! その他は長城へ向かわせろ!」


 劉剥は叩き斬りたくなるほど、不愉快そうに翠蝶華を睨んでいる。

 涙をこぼした翠蝶華の腕を掴み上げ、華奢な肩を素早く押さえた。


「さて、私は約束を守った。そなたは、私の後宮に入るがいい」


 翠蝶華の瞳が張り裂けんばかりに見開かれた。


「李劉剥、よくぞ生きていたな」


 引き出された劉剥は顔を上げたまま、ゆっくりと足を動かし土煙を天武に向けて蹴った。足も縛り上げろと言いかけた天武を嘲笑った。


「久しぶりだなァ、王サマよ」


 少し砂を吸った。ごほ、と咳き込む天武の前で、フフンと鼻を鳴らしている。


「陵墓の土は、こんなモンじゃねえぞ。蹴れば手が出てくる。アン? おい、何の冗談だよ。そこの真っ赤な女」

「劉剥! 見つけたからには、容赦しないわよ」


 いつしか涙の乾いた翠蝶華も、逆に劉剥を睨んでいる。


 ――なんだ。愛し合っている態度ではないな。


「だから、てめえは嫌いなんだ。へっ秦の王様の許で買われてたとはなァ。見損なったぜ、翠蝶…いいや、呂娘」


本名を聞くなり、翠蝶華は背中を向けてしまう。よほど嫌なのだろう。気持ちは分かる。


(つくづく似ているな翠蝶華は)


「后戚は……いないの?」


 劉剥は肩を竦め、不貞不貞しさ余りある態度で言い放った。


「あの女は聡明だからよ。俺を苦しめるくらいならと、安全な場所にいてくれる。いちいち苛つかせるてめえと違ってな! 騙されたぜ。いい女だなと思ったら、俺の大嫌いな沛公の娘? おまえに助けられるくらいなら、俺は死んだほうがましってもんだ」


「ならば、死ね」


 腸が煮えくり返った。天武は長剣を抜き、劉剥に突きつけた。劉剥は動じず、欠伸をしてみせる。


「おまえは、翠蝶華がどんな思いで、一人で夜を彷徨い、私に与したか、知らんのだ。いや、教えるつもりは一切ない。地獄で後悔するがいい!」


 天龍は舞い上がらない。天武が剣を振り下ろすのと、赤い長衣が舞うのは同時だった。


 赤い長衣に僅かに血を滲ませた翠蝶華は叫んだ。


「この男を殺したら、あんたをあたしが! そうね、貴妃になって、寝首を掻いてやるのもいいわね……」


 声音がいつもより低い。震える声は、確かに憎悪を孕んでいる。本気だ。本気で言っている。翠蝶華は劉剥を庇ったのだ。


 天武は、やるせなくなって、腕を下ろした。ふと、香桜が正面を見ているのに気付く。


「天武さま。どうやら、来訪者が来たようですが」


 見れば、馬が数騎、咸陽の街を抜け、咸陽承后殿・皇宮に向かって進軍しているところだった。


 ――来たか、斉梁諱。


「その莫迦男を、さっさと長城の人夫送りの役に追い立てろ。翠蝶華、腕を」


 翠蝶華は血の流れた腕を押さえ、ぷいと顔を背けた。見かねた香桜が自分の手の包帯を解き、腕の止血をしてみせる。



 天武は背中を向けた。元々、斉梁諱に逢うつもりは毛頭ない。そんな心境ではない。翠蝶華の腕を切った事実は、殺意を向けられた理由よりも、何より天武の心に黒い染みを残して行った。

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