斉の王太子――朝議に痛む頬

 ――聞いたか? 庚氏さまがご懐妊だと。

 ――花芯妃さまではなかったのか? ああ、楚は友好条約。

 ――楚を喪った庚氏さまを、お心を込め、毎晩、お慰めしたらしいですぞ。


 咸陽の一大事。天武が廊下を歩いている現実にも気付かず、噂は飛び交った。

 無論、庚氏の懐妊と天武の男の仕事の素晴らしさへの称賛だ。事が事なので、えげつない表現になりがちなのは、仕方がない。天武は拳を震わせた。


(し、辛抱ならぬ……っ)


 本来であれば、進軍の兆しのある趙への対策、新たな兵器の検討、陵墓に続き建設を決めた信宮の企画発表、貨幣の統一詮議する懸案事項は、ごまんとあるはずが今朝方のおめでた情報は、厳格な雰囲気を打ち破り、娯楽の色を醸し出してしまった。

 それだけではない。大きな膏薬を貼った頬がズキズキと痛む。


(翠蝶叩いただけでなく、爪を立ておった…!)


 巴旦杏の色の爪がざっくりと頬に食い込んで、引っ掻き傷を残して行った。

 慣老は遠慮会釈なく、無言で薬効を塗り込み、膏薬を貼った。

 天武は、敏感肌だと侍医は言う。以前も桃の吐きつけで、ほんのりと爛れさせた記憶がある。


(何だというのだ。なぜ、私が叩かれねばならぬ)


「朝議を始める!」


 天壇と呼ばれる咸陽承后殿の広場、大きな天蓋を抱き、頂点には黄龍を模した像がある。

 黄龍は秦の守護神だ。直下に立つ行動は、すなわち天の支配者を意味していた。九の礼に則り、階段は九十九段、九本の巨大柱には、やはり天龍を巻き付けている。

 九嬪の礼、九の神の彫像など、これでもかと言うほどに九が並ぶのは、卜占の運命数にも起因している。絶対運命数は百。手前の九十九は最良の数字とされる。

 天壇の最奥には各部門の長が並び、中央に王と正妃。天武には正妃はいないので、貴妃が並ぶ場面はない。


 手前の台座には書簡が山積みにされている。すべて近隣から上げられた嘆願書だ。


 除目朝議は長丁場だ。花朝と言えど、陽が高くなれば、湿度も増す。

 注がれた薬酒を飲み干し、けたたましい剣を叩きつける音に、ざわついていた秦の民・兵が口を噤んだが、今度は一部の兵が各々の頬を突いてにやにやしている。

 天武は長剣を高く持ち上げ、磨かれた刃を引き抜き序でに太陽に翳した。


「私は、朝議を始めると言ったが? 除目も兼ねた報告だ。つまらぬ話題で騒ぐな! 斬るぞ」


 ――ようやく靜かになったか。もう疲れた。


 だから女には関わりたくないのだと、口の中でぶつくさとやって、天武は片腕を上げた。

「先日の楚の遠征、ご苦労だった。敵の将の首を取り、近隣の村をも手中にできた成果は、楚を手中にできたと言えよう。だが、敵の猛将、叡珠羽の動向が掴めぬ。少府に申しつける。叡珠羽の首に賞金を懸けよ。以上だ」

 天武は持っていた書簡を広げ、眼を通して、李逵に手渡す。勅諚と言われる命令書だ。李逵は恭しく受け取って、すぐに下がっていった。

 続いて兵力の強化、並びに武器の入れ替えを説明させ、信宮の建設を明らかにした。

 当然、文句などは一切ない。宮が増えれば、商人も増え、仕事も増える。何より、罪人を難なく裁ける。留置所や永巷を作るよりも、ずっと効率的だ。

 陵墓、宮殿建設、長城の建設の過酷な土台作りは民衆ではなく、犯罪者を裁く意で行われる。下手に処刑を繰り返せば、今度は民衆が怯えるだろう。丁度良いのだが。

(李劉剥を見つけ出し、解放するつもりが流れてしまったな……)

「天武さま。話を」

 延々と続きそうな農村の謁見に入っていた現状を思い出し、天武は正面を向いた。

 黒土を運んだ新天地の作物については実っていないとの報告だ。以降、日照りによる作物の危機の話と税の引き下げ、すなわち、農民代表の愚痴が続いた。

 うんざりしたところで、続いて皇宮事務の典客の報告。

 宦官の動向や、不安定な精神状態の現状がある。狂気を発し、逸物を切り落としても、また再生する事例がある。興味深かった。


「殷徳に任せよ。庚氏は皇宮に来る」


 子を宿せば、それは太子となり、庚氏は正妃であり、太子母になる。

 慣老は東方の医学にも詳しい。父がいる頃から、王の侍医として馳せた家柄の長。間違う診断は、しないだろう。

 しかし遅すぎる。庚氏とまぐわったのは、三ヶ月前。いくらなんでもしかし、楚の夫との子供という推定にはもっと無理がある。庚氏は気高く、聡明だ。他の男を引き入れたりはせぬ。となれば、やはり、私の子、か。

 むむ、と天武は王座で考え込んだ。その姿勢を誠意と勘違いした農村の長は、手を摺り合わせた。


「くれぐれもお願い申し上げます」


 満足そうに告げて、嬉しそうに殿上を降りてゆく。

(ん? ようやく終わったか。田圃の爺の話は長いな)

 最後に、遠征にて戦績を上げた者への表彰があるが、除目の花形の爵位発表は先送りになった。

 秦の古兵と魏の新兵の冷戦は、頭が痛い問題だ。対立は、日ごとに激化していた。

 残りの議題は矮小なもので、一年の税や、土器の開発、車軌の改革など、報告が続く。

 半日を掛けて、天武は天壇にてすべての報告を聞き、残った書簡を抱えて台座を降りた。肩がけにした更衣を引き、裸足に束帯を巻いた足を階段に乗せた。

 陽はすっかり高くなっている。天武の黒髪を太陽が照らし、僅かに茶色に染めていた。


「最後に、秦では秦記以外の、書物の全面禁止、儒教の坑儒を唱える! 焚書坑儒と名付けた。以後、伝統ある秦以外の神を崇拝するものは、処罰の対象とする。以下に刑罰を述べる」 


 天壇の上から朗々と声を響かせる頃には、懐妊などで騒ぐ輩はいなくなった。


(ふん、これで莫迦げた方士も処刑できるな)


「以上で、花朝の朝議・詮議は終了とする。各々励め。次の遠征は近い」



 女官たちが戈を掲げ、王を見送った。

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