斉の王太子――ご懐妊の由
「姫傑。今後はどうするつもりだ」
趙、動いている者のいなくなった皇宮を歩きながら、白龍公主が愉快そうに姫傑を時折ちらっと振り返る。
無残に飛び散った肉片の合間から、姫傑はようやく目的の物を見つけ出した。王冠だ。
「しっかり抱き締めてやがる」
足で首のない躰を退かし、引っかけたまま固まっている指を切り落として、姫傑はようやく王冠を手に入れた。通常であれば冠と言うが、趙の王は北欧の文化に乗っ取り、王冠と言う。
「秦に全軍をぶち込む、ただし、斉梁諱・褒姫の無事を確認してからだ。胸騒ぎがする」
座っていた貴人が腰を上げた。
「斉ならば、間もなく滅ぶ。秦はまず、斉を狙う。私は咸陽に戻る。眼は預けてやる」
姫傑は消えた貴人の言葉を反芻した。
――斉ならば、もうすぐ滅ぶと貴人は確かに口にした。
8
天武が手を突っ込む度、書簡の山が崩れ落ちる。李劉剥の勅命を記した書簡が見当たらないのだ。
確かに、楚から持ち帰ったはずだ。文面は、しっかりと脳裏に残っている。再現するのは可能だ。だが、あれは、翠蝶華に確認させたもの。同じものでないと不都合がある気がしてならない。
……どこへやった。
「捜し物ですか……盛大な書簡の嵐ですね」
ぎくりとして振り返ると、優雅に笛を持ち、窓を背に寄りかかった香桜が、にやにやと天武を見やっている。
「香桜! そなたには軍師の地位を与えたはず! さっさと作戦を提出せぬか! 開戦は近いと言ったろう! 翠蝶華はどこだ」
心外だと、香桜は肩を竦めた。
「俺は、実戦向きですよ。そうそう。翠蝶は、昼間には仕事を入れませんよ。想い人でも探しているのかも知れないですね」
もっともらしく口にした香桜に、天武の怒りが炸裂した。
「想い人だと?」
「そう言えば、翠蝶華は陵墓の場所を聞いて回っていたようですが」
聞いた瞬間、天武は早足で立ち去った。
「あ、天武さま。おはようございます」と挨拶をした、のうのうとしている花芯に似た目元に八つ当たりをしたくなった。
「奔起! 朝議前に出かける。驪山陵の様子を見たい。腕の立つ兵をつけよ」
ぼけっと書類を抱え、歩いていた奔起は飛び上がり、兵舎に飛び込んでいった。
――陵墓に行っただと? 女が行くところではない。
春になり、気候も暖かになった。極寒で凍死した死体は、いずれ朽ち果て、異臭を放つ。氷の柩を溶かれた陵墓は凄絶余りある。
(そう言えば、李劉剥は生きておるのか? 咸陽の空には天龍がおるが)
咸陽から驪山陵までは、遠いが、馬であれば難なく到着できるが、翠蝶華は、馬が苦手。恐らく、徒歩で行ったに違いない。
――少し目を離すと、これか。
護衛の将三人を引き連れ、長剣を片手に天武は坑道を進んでゆく。
どんな凸凹した道でも、朱鷺は怯まない。猛速で駆け抜けて、咸陽を抜けたところで、天武は馬を止めた。
見覚えのある赤い長衣が春風の中、揺れている。包みを抱え、翠蝶華は咸陽と大平野の境目を現す柵に手をかけ、空を見上げているところだった。
「ここまで歩いたのですけど、足を挫いたのですわ。お気になさらず」
ずずと足を微かに引きずっている。天武は翠蝶華の腕を掴みあげた。
勝ち気な光が乱反射していつぞやを思い出した。
燕で出会った時、翠蝶華と瞳は確かに重なり合った。
あれから早くも五年が経つ。
翠蝶華の少し吊りがちだが、よく動く瞳にも涙が溢れた。
「いやですわ。そんな瞳で見ないで」
ぷい、と背を向けてしまった。明らかに以前の翠蝶華とは違う。
「そなたらしくもない。いつもの罵倒は、どうした」
背中が告げた。
「卑怯者」
いきなり来るか。だが、やはり翠蝶華には以前の勢いがない気がする。肩を押さえた。手がぴしゃりと来る。腕を回すと、華奢な肩は一度だけ大きく震えた。
暖かな躰を抱き締めて、掠れ声で天武は問うた。
「もしや、驪山を目指して歩いたか」
「卑怯な男の方がいつまで経っても約束を守らない」
翠蝶華の瞳が、見るみる大きくなった。天武は耳元で繰り返した。
「そなたは、いつも一生懸命だ。そんなそなただから、気になるのだ」
後からでも、女は表情を分からせる。ふっと翠蝶華が振り返った。
「ふうん。貴妃になれとしつこいのも? 呆れた秦の王ですわね」
「約束は果たす。遊侠を全員、掻き集める。ただし、そなたにも協力して貰わねば。私は劉剥と相まみえたが、顔を覚えておらぬ。華陰の遊侠は全員解放する。ただし、李劉剥は一番過酷な長城作りの人夫送りに命ずる。私の腕を切った狼藉は許されまいよ」
翠蝶華がまたしても勝ち誇り、微笑んだ。
「その程度で、劉剥は負けませんわ。地方豪族の娘と仮婚約して、実は女を囲っているようなずぶとい男ですもの。いい加減、この腕をお離しくださいません?」
その時、ふっと風が吹いた。微量だが、桃色の花びらが眼の前を通り過ぎる。
「桜桃か。そなたに投げつけられたわ」
「いつでも、ご遠慮せずに言っていただけば、投げつけて差し上げますわよ」
天武の腕の中で、翠蝶華が呼吸している。天武は再度、囁いた。
「私の後宮に入れ。淑妃の爵位を用意しよう」
「まっぴらごめんですわ」
五年も経てば、男も女も成長する。だが、天武と翠蝶華は相も変わらず平行線。「馬は嫌ですわ」と言う翠蝶華に合わせて、翠蝶華を膝に乗せ、馬を走らせた。
「なぜ火棘が花盛りなのかしら。本来は秋の花でしょう?」
従いてきた将三名は陵墓に向かわせ、朝議のために、一時、咸陽に引き上げている。
「叩き斬ろうにも枯れぬ」
「確かに、不気味ですわね。ぐるりと皇宮を囲んで」
しっかりと天武に腕を回し、馬から少しでも離れようと腰を浮かしている。躰と躰が擦れ合って、楚の夜を思い出した。
あの時、翠蝶華も湿っていた。受け入れようとしていた。
馬は、ゆっくりと進んだ。
咸陽の朝市は早い。そろそろ朝餉の時間を迎える。
「市が始まりますのね……凄い活気ですわ」
日時計では陽が昇った瞬間を朝と見なす。渭水に映る朝陽は、ゆらゆらと陽炎の如く揺れていた。
見えてくるのは遥媛公主の宮、続いて、無人の宮殿が続き、殷徳の宮、庚氏の宮は対角にあり、見えるのは渭水ではなく、燕山山脈。
「アラ」と翠蝶華が首を伸ばした。小柄な老人が走って来るのが見えた。
爽やかな朝には相応しくない、よぼよぼ歩きではあるが、声は人一倍でかい慣老だ。
「慣老? ああ、走るな! そなたの骨折なぞ、見たくないぞ」
馬を止め、馬の上から怪訝に聞いた。皇宮から何やら音楽……歌のようなものが聞こえ、天武は鼻に皺を寄せてみせる。
「皇宮が騒がしいぞ。朝議の前だ!」
「あれは秦の兵が仕事を放置し、歌を歌っておるのです。お世継ぎさまの誕生に!」
世継ぎ? 何を戯けた話を、と天武は罵倒しようとして、気がついた。
「ま、待て……っ。その話は皇宮で……」
天武は慌てて両手で慣老を制したが、歓喜の余り、興奮した爺の侍医の声は、高らかに響き渡った。
「賢妃庚氏さま、ご懐妊の由にございます!」
終わるや否や、翠蝶華が天武の頬を叩く音も、高らかに響き渡った――。
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