斉の王太子――秦と趙の開戦の構え

                  *

 趙の皇宮に寒波が吹き荒れる。宴会の最中、入口が封鎖された中で、あるものは凍り、あるものは土の臭気で狂い、喉を掻き毟る。酷い者は上半身を凍らされ、下半身は吹き飛ばされて霧散した。


 手にした宝玉類を死しても離さず、王冠を抱き締めた腕を、姫傑の長剣が襲った。阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、羽衣を振り回し、皇宮をすべて凍らせた白龍公主の笑い声が響き渡った。


――もう迷わない。斉梁諱、俺は外道をゆくぞ。必ず、救ってやるから、何としても生きろ。


 一方、斉の海にはゆっくりと海月が押し寄せ、あれほど斉梁諱が恐れていた、海匈奴が迫っていた。



                 7



 ――花朝の朝。咸陽・皇宮。朝議前。

書簡を目にした愁天武の一言から、些細な諍いが巻き起こった。


「仙人についての書簡だと? ちょうどいい。仙人や方士に対しての思想は今後きっぱり制限するとしよう」


 集まった皇宮事務長官、少府、典客を合わせ、軍事担当を加えた朝議の参加人数は、およそ三十名。大半が秦の民だ。

 燕や魏では仙人の伝承はもはや神崇拝に近く、秦では仙人を排除する坑儒の動きがある。忽ち、古兵と新兵が衝突した。


「天武さま。仙人や方士は、豊富な知識と知恵を携えております。秦では方士たちを排除するとか。それは間違いだと思いますが」


 兵卒の意見に天武の眉が上がった。気付いた男たちが、諫め始める。


「何を言っているんだ。おい、この莫迦な学者を、即刻、摘み出せ」


 秦の古兵は天武の異常なほどの仙人への嫌悪感を知っている。天武はゆっくりと台座を降りると、長剣を引き抜いた。


「話にならぬ。去ね!」


 転がった死体で早朝の会議は騒然とした。斬られたのは新兵の一人だ。早朝の天武の体調を看ていた慣老が、天武を諫め始めた。


「天武さま! 殺生が過ぎますぞ!」


 天武も負けずに怒鳴り返した。


「うるさい、慣老! 私は仙人なぞ信じぬと、幾度しつこく言えばわかる! 朝議は一時中止だ! 中止! 二度とくだらぬ書簡を持ち込むな! 秦にもいずれ、焚書命を下す!」


 朝露を溜めた牡丹が僅かに下を向いていた。雄蕊と雌蕊を垂れさせて、重そうに揺れている。我慢できずに、庭に裸足で降り立ち、剣を抜き、その花萼を切り落とした。ふと、牡丹を植えたのは殷徳だと感づく。


 牡丹は天界の花だ。花の王を後宮に植えるとは殷徳が後宮の王になろうとしている野望を意味する。


「富貴草」「富貴花」「百花王」「花王」「花神」「花中の王」「百花の王」「天香国色」。


 天武は皇宮を出、殷徳の住まう宮殿への回廊に足を向けた。ところで、

「お待ちください! 天武さま!」

 振り向かず部屋を後にした天武を、李逵が追いかけてきた。


 恐妻家という部分で共感したようだが、天武には妻はいない。庚氏あたりを設定されているのは不愉快だ。


 だが、李逵の妻話は、至極面白い。地方豪族上がりの李逵の妻は極めて強い。


「なんだ、またもや面白話か。昨晩の夕餉は何であった」

「いえ、先日の大酒飲みの件で、小職は未だに家に戻れませんので」


 どうやら大宴会をやり、帰りそびれたせいで、妻に家に入れて貰えない。

外で一晩を過ごし、結局厩舎で寝たという話は、考えると笑いが毀れる莫迦話だ。

天武は機嫌を取り直して李逵と並んで回廊を歩いた。


途中、猛獣が走ったかの如く、回廊が乱れているのに気がついた。


 この道は皇宮からしか入れぬはずだ。眼を走らせれば、あちこちに泥が残っている。伸びた道は庚氏の宮殿に繋がる回廊。


「先日、皇宮に土足で鼠が這い上がった。そなた、知っているか?」

「奔起さまの尻が燃えていたのは見ましたが。そうそう。その時に笛の名手の香桜さまと、遥媛公主さまが一緒にいるのを見かけましてね」


 世間話でもしたのかと天武は首を捻った。だが、斉の美女と得体の知れない笛吹きに関係性など、見い出せるはずがない。


「それは、また珍しい組み合わせだな」


 李逵は頷き、前方の気配に気付いて、一歩さっと後に下がった。

殷徳と庚氏が回廊の途中で睨み合っていた。


「久しいですのう。天帝さま」

「まあ、天武さま。ご機嫌いかが?」


 台詞は言葉こそ嫋やかで、優雅だが、どちらも皮肉に満ちている。天武に声を掛けつつも、互いを睨み合い、殷徳の手が庚氏の頬を打ち、今度は庚氏の手が殷徳の頬を打った。


「止めなさい! 王の目前で!」


 見かねた李逵が止めた。だが、殷徳妃は腐肉げに唇を歪めて見せた。


「この女が、戯けた話を吹聴するので説教をと思った次第」


 聞いていた庚氏が「まあ」と引き攣り笑いを含みながら、喋り出す。


「私は至って本気ですわ。それは天武さまが、よぉくご存じのはずですわね」


 ――どうも話が見えぬな。


 眉を下げた天武の前で、庚氏の纏め髪がふるると揺れた。


「私のお腹には、間違いなく天武さまとのやや子が宿っております!」

「ふん、そんな貧弱な肉体で男を昇天させられるか」

「まあ、牛のような躰よりは、ましですわよ」


 諍いの理由が分かり、後に足を滑らせた瞬間、庚氏の目が天武に向いた。



「天武さま。どこに行かれるのです?」



 庚氏は縋り付き、天武の手を掬い取った。


「お喜びください。先ほど、お腹がとんとんと言ったのですわ」

「また、そのような戯けを。そもそも天帝さまは、種など簡単に預けはしないだろうに。憐れな女の妄想か」


 いいえ、と庚氏が口調を強くした。


「天武さまは、私の中に熱いものを何度もお出しになりましたわ!」


(やめぬか!)と声も出せず、居たたまれない気持ちに陥る。どうして女という代物は、こうも生々しい言葉を平然と言えるのか! 


「騒ぐな。庚氏、今から侍医を呼ぶ。看てもらうがいい」

「ご厚情、恐れ入ります」


 天武はん、と頷いた後で、冷酷な一言を投げつけた。


「もしも妊娠していなければ、そなたは私を謀ったと見なす。しかと胆に命じよ」


 庚氏の瞳から涙が滑り落ちた。殷徳が驚いて庚氏を見やっている。庚氏は睫を震わせながら、口元を己の人差し指で撫で、声を更に弱くした。


「酷い言われよう……泣いた弾みにややが流れてしまいますわ。私は鬼の子供を産むのでしょうか」


「お、鬼だと……? いや、わかってはおるが、こうも言われるのは心外……」


 呆気に取られて言い返せない天武の肩を、李逵が叩いた。


「小職も、女に振り回される人生です。天武さま、そろそろ朝議にお戻りを」


 殷徳は不貞不貞しくも、手にした大型の孔雀団扇で扇ぎ、知らんぷりだ。


「庚氏、もしもそうなら、きちんとした爵位を容易せねばならぬ。后妃の位だ」


 ニィと庚氏の口元が上がった。天武は眼を伏せていて、気づきはしなかったが。


「嬉しゅうございます。秦のための良い御子になるでしょう」


 秦のための、を些か強い口調で告げる。


「李逵。朝議再開だ。除目の決定をせねばならぬ。空いていた白起と、驪山陵にいる李劉剥を解放するための書簡を」


 脳裏で翠蝶華が笑った。頬を微かに緩めた瞬間、宦官が二人、駆け込んできた。


「何事か!」


 宦官は若い。髭が抜け落ちた表情は、おなごと見まごうほどに可憐だ。


「殷徳妃さまに申し上げます。北甲の趙にて、異変ありでございます」


 天武の爪先も一緒に向いた。


「私にも報告はないぞ。一緒に聞かせて貰おう。そなたは知らぬか。私が秦の王、天武だ。見知りおけ」


 宦官は天武を見上げ、飛び上がりそうになった。座り直して、慌てて説明を再開する。


「趙よりの早馬でございます。王、王妃、その他の王族が皇宮にて、惨殺に遭った。趙は新たな王を建て、秦との開戦の構えでございます!」



 ――新たな王……開戦の構え……っ……。



 天武は汗ばんだ手で、知らず庚氏の手を握りしめていた

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