斉の王太子――蛟の仙人と趙の王
手にあるのと同じ目玉が、キロと動く。
「私は蛟の仙人、貴人だ。貴様も、私の眼を抉った一派か」
すべてを憎んでいるようでいて、口調は諦めにも似ている。姫傑は手にした眼球を見やり、また貴人に視線を向けた。
斉梁諱が、仙人から眼を奪うなど、考えもしなかった。見え隠れするのは、貴人の怒りではなく、人の併せ持つ残虐さだ。
少なくとも、貴人に同様に見られる事態だけは避けたかった。
考えた末に、姫傑は明るく手を振った。
「いや、俺は、全くの他人っすよ。こう見えても、平和主義なんだ」
「人に武器を突き立てておいて、よく言う。よく地中の私を見破った」
姫傑は辺りを見回し、また眼の前に視線を戻した。
いつしか白靄が取り囲み、濃く漂っている。一寸先も見えない状態だ。
また、蛟の影が足元に這い回った。姫傑の足に無数の蛇が這い、首を締め上げようとする。雨と強風の中で、姫傑は宙に手を伸ばした。
息ができない。ころん、と手から眼球が落ち、泥に埋もれた。
一瞬だけ貴人の眼が逸れた。忽ち姫傑の蛇は消え、泥に膝を折った。腹から吐瀉物がせり上がってきて、咳き込んで、泥の中に吐いた。
呼吸を整え、口を開けて、気道を確保すると、姫傑は絞め上げた仙人を睨み上げた。
「な、にしやがるっ! 俺は、どこぞの莫迦から、そいつを返してやれと預かっただけだっつの!」
ふいに、氷気が靄を遮断し、盛大なくしゃみが出た。貴人がむっとしながら、顔を袖で拭っている。
(今度は、何だァ! 冬でも突然やって来やがったのか!)
姫傑は少し濡れた鼻をこすり、何気に空を見上げた。
氷気が渦巻いていると思ったのは、氷龍だ。透き通っているために、冷気の渦だと勘違いしていた。
唖然と険しい山に蛇行する龍を見上げる。絶望にも似た感情が迫り上がる。
――こんなもん……人が敵うわけねえだろ!
言葉が出ない。ただ無言で龍を見上げた姫傑の脳を何かが、ざらりと撫で上げる。
心臓が締め上げられる如く痛い。呼吸がしにくい。
――なぜ、気付かなかった。
仙人の眼を託した斉梁諱の思惑が、ようやく分かった。
(そうなんだな。おまえは、俺に、これを利用しろと言ったんだ)
脳裏の斉梁諱は、もう会えないかのように微笑んでいた。
瞳が龍を歪めて、微かに震える。脳裏では幸せそうに寄り添った斉梁諱と褒姫と姫傑の笑顔が皹割れていった。
〝いってらっしゃいと言われたからな〟
〝褒姫を頼む〟
(梁諱が戻らないのを褒姫も知っていた! なのに、俺は罵倒するばかりで!)
趙と斉の合間の山脈は、確かに険しかった。潜んでいる民族の抗争で、命を落とす者もいた。山脈を越える瞬間は危険など微塵も感じなかった。
山脈の向こう側には、斉梁諱と褒姫が待っていると思えば、生きてゆけた。
姫傑は斉梁諱も、褒姫も好きだ。仲の良い二人を悪くは思わなかった。
幼少に苦しめた国を奪おうという、愁天武の子供じみた征服欲は、欲などなかった平凡で良かった二人すら、砕こうとする。
不肖の子という立場の意味が分からず、確かに天武を姫傑は軽蔑し、大人たちに言われるままに、石を投げ、時には天武の尊厳を無視するような行為もした。心が痛まなかったわけではない。
また地表に蛇の影が這い回り始めた。
時間がない。時間がない。
尊厳も何もかもを豚にするような男が正統なる趙と趙民の幸せを踏み潰す!
腹がかっと熱くなった。全身の血が逆流するほどの怒りは、逆に姫傑を冷静にしてゆく。
(この俺が、趙も斉も奪わせるなんて許さねえ!)
「毒の華を探してんだけど知らねぇかな」
貴人は無視して、手に持っていた琵琶を掻き鳴らし始めた。莫迦にしている態度だ。
「おい、話を聞け変な音を鳴らしてねえで! 仙人って人の話を聞かねぇんだな!」
「話を聞かないのは、そいつだけだ」
突然、白に碧の輝きを纏った龍が喋った。四肢を揺らし、高度を下げてきた。
やがて輪郭を溶かし、人型になった。
「俺は、白龍公主芙君。氷の仙人だ。この山は波長が合うので、しばし躰を休めていた。どたばた騒ぐな。休めるものも休めぬ」
男は黒髪を盛大に頭の上で盛り、男なんだか、女なんだか分からない化粧を施し、女ものの羽衣をしっかりと躰に巻き付けている。長い睫を揺らし、吊り目を光らせていた。
「基本、仙人は話を聞かぬ。そもそも、人間に耳を貸す理由がわからないな」
見たものを疑わない姫傑は、二人の仙人を真剣に見つめた。
人にはない、人を消せる力を持つ奴ら。
(どんな手段でも、どんな悪魔にでも、縋れるものには縋ってやる)
「いて、おい、強く握るな」
貴人が顔を顰めるほど、姫傑は竜眼を強く握りしめた。
「どんな手段でも、どんな悪魔にでも、縋れるものには縋ってやる」
もう一度、はっきり口に出して、決意し繰り返した。
氷の雨は、いつしか止んでいた。
姫傑は貴人の眼を突き出し、唇を震わせて、二本指を突き立てるべく、腕を振り上げた。
「ぅああああっ」
貴人は片眼を押さえ、残った瞳で姫傑を殺すかの如く睨み付けた。痛みがハンパではないらしく、両手で抉られた眼窩を押さえ、瞳を開いたまま、小刻みに震えている。
瞳がぱっくりと空いた、ない瞳を溢れ返らせた貴人は喉が張り裂けるほどに慟哭した。顔を歪め、融けた眼を姫傑に向けた。
「この、野郎喰ってやる、喰ってやるぞ……!」
地に無数の蛟が這い回る。
「うああああああああああああ!」
地はうねり、姫傑を死に至らしめようと、眠っていた土の龍を呼び起こす。それも、腐ったような、怨念の塊。眼が霞んで、吐き気に口を片手で覆った。酔ったような酷い嘔吐感に堪えきれずに、手の中に吐き出す。
「死ね! 仙人に逆らう獣が! ああ、殺してやるぞ! 魂まで殺してやるぞ!」
琵琶の狂った音色と、土龍の腐臭が姫傑を襲った。
気が狂いそうな音色の中、姫傑は腐乱した龍がのし掛かる光景を眼に映す。
臭気が消えた。恐る恐る眼を開けると、土龍は茶色の滴を垂らした状態で、凍っている。
「俺は、醜いものが嫌いだ。腐った怨念の土龍など見たくもない」
袖で口元を隠し、白龍公主は、さらりとした口調で厭味に告げる。
「人間の挑発に乗って、腐った龍なんか呼ぶな」
「私は、おまえの性格は嫌いだ。か、可愛い私の龍を凍らせ…っ」
凍った龍は白く覆われ、動かない。しょんぼりして、貴人は背中を向けた。
姫傑は小さく背中を丸め、震えている仙人に視線を向ける。傍には凍らされた龍が彫刻の如く聳えていた。
握りしめた竜眼を見下ろし、貴人に歩み寄った。
「眼は返す。誓おう。必ず、おまえに返す。だが、条件をつけたいんだ」
貴人はゆっくりと立ち上がり、凍らされた龍を寂しそうに見上げた後、姫傑に向いた。
「傲るのも、いい加減にしろ人間風情が。仙人に痛みがないと勘違いか!」
「趙の俺にとって邪魔なもの、すべて殺してくれ」
聞いていた白龍公主が肩を揺らす。
「違うだろう。言い方が」
優雅に構えていたような声音は完全に男の声音に変化している。白龍公主は姫傑の手の甲をとんと叩いた。
引きちぎられるような痛みに貴人の眼を落とす。言葉にし難い悲鳴が上がった。見れば白龍公主は貴人の眼を踵で踏み潰し、更に容赦なく、踵で泥に押し込めようとしている。
「こいつは、龍の劣化した蛟。従えたいなら、このくらいは、やって見せろ。さすれば、この俺も力になってやっても良いぞ? フフ、天帝に一泡吹かせてやろうじゃないか。この白龍公主の力は大きいぞ? なんせ山脈を毎晩凍らせ、楚を護ったくらいだからな。邪魔なものすべてを殺せ? 面白い」
白龍公主はふっと足を離し、面白そうに姫傑を眺めている。貴人は怯えていた。
「やれ……、と?」言葉が震え、答を白龍公主の眼に見つける。
全身の血が沸騰する。足を上げて、また下ろした。
「無理だ。だって、突いただけでも血があんなに! 俺は卑怯者じゃねえ!」
「卑怯だからこそ、愁天武は勝てる。ここから先、生き残れるのは、卑怯なものだけだ。卑怯だからこそ、護れるものもあるさ」
すべてお見通しだと、白龍公主は姫傑に微笑む。
姫傑は足を上げ、思い切り踵を振り下ろした。眼から血を吹き出して、貴人が声なく倒れる。
「どちらにせよ、我が主は待機だ。暇を持て余す」
抱き留めた仙人の顔はまだ少年。驚愕して、貴人の顔を覗き込んだ姫傑の心を読んで、白龍公主が告げた。
「我らは大抵、千年は生きる。若く見えるのは、年をとらぬからだ。特に天帝や俺、蛟は龍だ。万を生きる可能性もある。行くぞ。名は」
名を言いかけたところで、貴人の眼が開いた。
「本当に、私の竜眼を返すのだな」
失神していたが、よろよろと立ち上がった。結い上げた黒髪を盛大に揺らし、白龍公主は颯爽と霊峰の最深部に足を向けている。
後戻りはもうできない。愛おしい妻を置いて、死に出かける振る舞いは、莫迦だと思うか? 違う。斉梁諱は、護るために前に進んだ。
(趙と斉――この姫傑、受け取ったぜ!)
姫傑は眼を開いた。霊峰から地を見下ろし、遠くに眼をやると、特徴ある切り立った山脈が見える。あの険しい山脈の向こうには、趙がある。
秦になど、従ってたまるか。
姫傑は自分でも驚くほど、高貴に尊厳高く宣言した。
「古の歴史ある大国、趙の王、姫傑だ」
「では、姫傑よ。しばし付き合おう。はは、天帝に目にものを見せてやる」
以降、姫傑の横には、二人の仙人、白龍公主、蛟龍貴人が従う図になった。
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