斉の王太子――霊峰にて出逢う存在
斉の王太子――霊峰にて出逢う存在
斉にある唯一の霊峰、琅邪山。源林が姫傑の行く手を阻み、一歩も踏み込めやしない。重なった樹木の幹は白く、更には鬱蒼と白靄が覆い被さり、視界を悪くした。
「なぁるほど、人の入れぬ霊峰、な」
さすがの野生児の姫傑も、躊躇するような有様だ。
覚悟を決めて足を踏み入れると、雨で地盤が緩んでいるのか、今度は地面が、ぐにゃりとした。
(こんなもんで、俺の足を止められるか!)
「愛憐、ここで待っていろ。ここからは自分で歩くしかなさそうだぜ……」
美姫を撫でた姫傑は、はみ出た枝葉を手で掴む。
「うぉら、どけどけーっ」
棍を振り回し、邪魔な木々を薙ぎ倒して、姫傑は山道を突き進んでいたが、どうにもこうにも、源林は行く手を阻む。
「キリがねえな! ったく」
姫傑は意志を持ったかのように蔓を伸ばしてくる木々を睨んだ。
(胸クソ悪ィな。絡みつく感じが、天武そっくりだぜ)
ふと見上げれば、今にも愚図り出しそうな雨雲が垂れ込めていた。
「おいおい。冗談じゃねえよ。こんな山の中で」
不安に苛まれた瞬間、頬にぽつりと滴が当たる。たちまち滴は雨となり、風を伴っての俄雨を経過し、大雨になり、更に風は強くなった。
謂わんこっちゃねえ! 降って来やがった!
姫傑は慌てて足を泥濘から、眼の前の大木に向けた。丈夫な枝を選んで掴み、懸垂の要領で、上半身を振り子の如く揺らし、枝の上に飛び乗った。
大雨だ。泥濘に足を取られれば、山崩れに巻き込まれる危険がある。それも尋常の雨ではない。氷粒が眼に入りそうになって、片手で振り払った。
「すげぇ雨だな。雨が凍ってんのか」
雹だ。掌で受けた雨粒は雨というよりは、氷の欠片。
姫傑はばらけた髪を再び麻紐できつく縛り直し、氷雨の中で眼を凝らした。
風に煽られた枝葉が思い切り額を打った。
蹌踉けた拍子に、潜めていた龍の目玉が地表に落ち、キロと目玉は姫傑に向いた。
「何だって、俺を見んだよ。気味悪ィな」
地表に埋もれ、目玉が沈んで行く。
完全に見えなくなる瞬間、姫傑は慌てて飛び降り、泥に手を突っ込んだ。これは梁諱が託した大切なものだ。拾い上げる瞬間、足が滑って、顔から泥に突っ込んだ。
ぁははははははは。
ふと、高笑いの声が響き、地表が脈打ちうねり出した。
よく見れば、蛟の容をした影が姫傑の足元に這って旋回している。
棍を二つ揃えて、地面に突き立て、下ろす。
「そこかァ――っ!」
更に蛟の影は早くなり、狂ったかのように地表を這い回って止まる。やがてスウウと陽炎が立ち昇り、ゆっくりと人影になり、立体になった。
麗しい美女だ。たっぷりとした金の髪に、薄倖そうな微笑み。姫傑は少し影のある美女も好きだ。要は、何でも女で、優しさと、秘部があればいい。
「何をしに来た、人間」
美女はぼそりといい、髪を掻き上げた。隠れていた喉仏がくっきりと見え、姫傑は落胆した。男には用はない。通り過ぎようとした時、男の手は姫傑に伸びた。
――泥の中に引きずり込まれる!
泥濘に立っているのに、男の服は汚れていない。よくみると足が浮いている。ほんの少しだが、爪先が離れている。
驚きで無言になる姫傑の前で、男はふわりと浮いて、空中で足を組んで見せた。
「返せ。ようやく、見つけた」
ぐいと髪を持ち上げた顔面には、ぽっかりとした眼窩が覗いていた。
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