幕間――将の背負うべき痛み

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 夜、天武の書斎には書簡が山になって届けられる。楚の遠征も手伝って、決裁が必要な書簡は倍に膨れ上がっていた。

 当然、夜の公務が終わっても、用意された寝台の上にはいくつもの書簡・竹簡が散らばる事態になる。躰を横たえてはいるが、夜伽中も待機していた皇帝の私府少府とともに、天武は深夜の仕事に励んでいた。

 天武が了承した書簡は、翌朝には朝議にて、正式に通達される仕組みだ。早朝会議にて、宗正という皇宮事務に引き渡され、必要な担当部門に伝達される。

 基本的に止まらない手を、ふっと止めた。


「貨幣の統一?」


「は。魏と燕は近しいので問題はないですが、漢と楚と呉はすべて貨幣の単位が違うのです。楚の商人が訴えを起こしました。楚では高く売れたものが、秦では値下がりすると」


 妻の元に帰りたそうな顔をしたまま、手伝いに参加していた李逵が恭しく進み出る。


「ごうつくばりめ。ふむ、貨幣の統一か。青銅を鋳直して」


 いや、それでは駄目だ。根本的に共有する貨幣が要る。問題は保留にした。


「楚は随分と商人のいる土地であったな。商人の多さでは華陰を思い出す。李逵、天秤の傾きは、どうだ」


 天武は嬉しそうに天秤の皿を指す。ちょうど天秤は水平を保っていた。水平になった天秤は、一日の仕事の目方を終えた事実を意味する。


「結構でございます。では、私どもは引き上げます。朝議の資料を作成し、明日の報告に備えますので」


 ――やっと終わった。


 靜かになった寝台に、ようやく天武は躰を横たえ、遥媛公主との密夜を思い出す。

 天武は手を開いたり、閉じたりしてみた。


遥媛公主の内に抱かれた温かさは覚えがある。遠い昔、どこかで……。


 入口が鳴ったのに気付いて、慌てて起き上がった。

淫猥な記憶を手繰り寄せているときの来客は、どこか恥ずかしい。

――現れた客は陸睦だ。

 天武の寝室は皇宮の中でも、一番奥にあった。しかも暗殺に備え、場所を知っている者は一部である。


「よくこの部屋に辿り着けたな」

「李逵さまにお聞きしまして。ここでないと話せないんで」

「ほう? なんだ」


 よく見ると、陸睦は両手を背中に回し、少し前屈みになっていた。天武は眉を寄せた。


「そなた、何を手にして」


 言葉が終わるや否や、陸睦はおずおずと差し出した。真っ二つに割れた竹簡式の書簡は、かつて楚で天武が折った庚氏の書簡だった。

 散々な行為の批評をされた挙げ句、珠羽連呼のあの書簡だ。


(なぜここにっ!)


 天武は記憶を反芻した。確か、楚に着くなり、真っ二つに割り馬のワラの中に突っ込んだ……。秦に戻る際、馬に必要だと寝わらをそのまま台車に積み……めまいがした。


「文字は読めなかったはずよな?」


 陸睦は「すみません」と小さく口にし、唖然とした天武に狐眼を細め、もごもごと言い返した。


「俺、最近、勉強したところで……庚氏さまからの恋文だとは……」


 読んだが誤解している。また、陸睦との秘密事が増えた。

 出て行けと言おうとしたが、陸睦は動こうともしない。

代わりに、泣き笑いで、震える両手を差し出した。


「消えないんですよ」


 陸睦が言わんとしている内容はすぐに分かった。天武は寝台を降り、ずっと小刻みに震えていた不安そうな手をそっと掴んだ。


「肉を切り、骨を断った感触が忘れられぬか」


 驚愕して、陸睦が眼を見開いた。瞳には、僅かばかり涙が溢れていた。

 人を屠る道を進む悪鬼への抵抗だ。


「私の手も同じだ。殺した相手を忘れはせぬ。陸睦。それが将の背負うべき痛みだ。辛いか?」


 陸睦は首を振った。天武は頷いて、頭を撫でた。


「おまえはもっともっと人を切り、血を流させる。だが、それが私のためでありたいと、叫び、選び取った道だ。それとも、ここで止めるか?」


「いえ! 死んだ父ちゃんに怒られます。俺がやるのは、誰ですか。敵将の首は取りました。次は」


 天武は眼を細め、続けた。


「恐らくおまえが殺るのは、秦の兵。私はおまえを白起にすると決めた。直に沙汰も降りよう。おまえに私は百二十万の大軍を任せたい。その後は……」


 天武はふっと笑うと、会話を止めた。


(俺がやるのは誰ですか……か。忠誠を誓うより、ずっと響く言葉よな)


 魏を滅ぼした天敵だと、天武を殺すも可能だった。


そのほうが、ずっと人らしく、幸せに生きられたはずだ。何故などとはもう言わぬ。

礼を置き、背中を向け、覚悟の道を歩き始めた少年を靜かに見つめた。


――共に悪鬼の道を進もうぞ、陸睦よ――。

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