幕間――将の背負うべき痛み
5
夜、天武の書斎には書簡が山になって届けられる。楚の遠征も手伝って、決裁が必要な書簡は倍に膨れ上がっていた。
当然、夜の公務が終わっても、用意された寝台の上にはいくつもの書簡・竹簡が散らばる事態になる。躰を横たえてはいるが、夜伽中も待機していた皇帝の私府少府とともに、天武は深夜の仕事に励んでいた。
天武が了承した書簡は、翌朝には朝議にて、正式に通達される仕組みだ。早朝会議にて、宗正という皇宮事務に引き渡され、必要な担当部門に伝達される。
基本的に止まらない手を、ふっと止めた。
「貨幣の統一?」
「は。魏と燕は近しいので問題はないですが、漢と楚と呉はすべて貨幣の単位が違うのです。楚の商人が訴えを起こしました。楚では高く売れたものが、秦では値下がりすると」
妻の元に帰りたそうな顔をしたまま、手伝いに参加していた李逵が恭しく進み出る。
「ごうつくばりめ。ふむ、貨幣の統一か。青銅を鋳直して」
いや、それでは駄目だ。根本的に共有する貨幣が要る。問題は保留にした。
「楚は随分と商人のいる土地であったな。商人の多さでは華陰を思い出す。李逵、天秤の傾きは、どうだ」
天武は嬉しそうに天秤の皿を指す。ちょうど天秤は水平を保っていた。水平になった天秤は、一日の仕事の目方を終えた事実を意味する。
「結構でございます。では、私どもは引き上げます。朝議の資料を作成し、明日の報告に備えますので」
――やっと終わった。
靜かになった寝台に、ようやく天武は躰を横たえ、遥媛公主との密夜を思い出す。
天武は手を開いたり、閉じたりしてみた。
遥媛公主の内に抱かれた温かさは覚えがある。遠い昔、どこかで……。
入口が鳴ったのに気付いて、慌てて起き上がった。
淫猥な記憶を手繰り寄せているときの来客は、どこか恥ずかしい。
――現れた客は陸睦だ。
天武の寝室は皇宮の中でも、一番奥にあった。しかも暗殺に備え、場所を知っている者は一部である。
「よくこの部屋に辿り着けたな」
「李逵さまにお聞きしまして。ここでないと話せないんで」
「ほう? なんだ」
よく見ると、陸睦は両手を背中に回し、少し前屈みになっていた。天武は眉を寄せた。
「そなた、何を手にして」
言葉が終わるや否や、陸睦はおずおずと差し出した。真っ二つに割れた竹簡式の書簡は、かつて楚で天武が折った庚氏の書簡だった。
散々な行為の批評をされた挙げ句、珠羽連呼のあの書簡だ。
(なぜここにっ!)
天武は記憶を反芻した。確か、楚に着くなり、真っ二つに割り馬のワラの中に突っ込んだ……。秦に戻る際、馬に必要だと寝わらをそのまま台車に積み……めまいがした。
「文字は読めなかったはずよな?」
陸睦は「すみません」と小さく口にし、唖然とした天武に狐眼を細め、もごもごと言い返した。
「俺、最近、勉強したところで……庚氏さまからの恋文だとは……」
読んだが誤解している。また、陸睦との秘密事が増えた。
出て行けと言おうとしたが、陸睦は動こうともしない。
代わりに、泣き笑いで、震える両手を差し出した。
「消えないんですよ」
陸睦が言わんとしている内容はすぐに分かった。天武は寝台を降り、ずっと小刻みに震えていた不安そうな手をそっと掴んだ。
「肉を切り、骨を断った感触が忘れられぬか」
驚愕して、陸睦が眼を見開いた。瞳には、僅かばかり涙が溢れていた。
人を屠る道を進む悪鬼への抵抗だ。
「私の手も同じだ。殺した相手を忘れはせぬ。陸睦。それが将の背負うべき痛みだ。辛いか?」
陸睦は首を振った。天武は頷いて、頭を撫でた。
「おまえはもっともっと人を切り、血を流させる。だが、それが私のためでありたいと、叫び、選び取った道だ。それとも、ここで止めるか?」
「いえ! 死んだ父ちゃんに怒られます。俺がやるのは、誰ですか。敵将の首は取りました。次は」
天武は眼を細め、続けた。
「恐らくおまえが殺るのは、秦の兵。私はおまえを白起にすると決めた。直に沙汰も降りよう。おまえに私は百二十万の大軍を任せたい。その後は……」
天武はふっと笑うと、会話を止めた。
(俺がやるのは誰ですか……か。忠誠を誓うより、ずっと響く言葉よな)
魏を滅ぼした天敵だと、天武を殺すも可能だった。
そのほうが、ずっと人らしく、幸せに生きられたはずだ。何故などとはもう言わぬ。
礼を置き、背中を向け、覚悟の道を歩き始めた少年を靜かに見つめた。
――共に悪鬼の道を進もうぞ、陸睦よ――。
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