幕間――消えゆく命の灯
今宵の相手は遥媛か。
龍の千里眼をあまり使いたくはないが、香桜は遥媛と天武が睦み合うさまを覗き見していた。仙人の特権だ。だからといって人間のように欲情したりはしない。
香桜は足を忍ばせ、皇宮をゆっくりと歩いた。深夜の皇宮は、ひっそりとしていると思いきや、人通りが多い。
朝議のために徹夜覚悟の少府や、天武の警備を兼ねた朗中令は勿論、こっそりと男を引き入れる妃嬪や奴隷、宦官たちが忙しなく動いている。
夜なので、灯りの芯は短く切断され、宮内は暗い。
(いた、いた)
目的の桃色の貴妃服がよく似合う、我が妻花芯。しかし花芯は香桜の姿を見つけるなり、むっと頬を膨らませた。無理もない。楚戦が終了するなり、香桜は花芯を霊峰に閉じ込めた前科がある。
(可愛いな。まだ、連れ去った仕打ちを怒っている)
「また夜の遠出をしたね。花芯、夜は危ないよ。獣に食われる」
「なぜ、それを」
泥だらけの服に気付いていない。ちょうど外で遊んで帰ってきた愛猫のようだ。
「服、見てごらんよ。天武に叱られるよ、花芯ちゃん」
服を引きずったらしく、高級な服は土で汚れて、更に足も泥に塗れている。
また華毒の材料を取りに行っていたのだろう。
そんなにも、天武に愛される他の女が憎いのかと、香桜は、やるせなくなった。
今すぐ天界に連れ去って、美しい宝玉で冠を作らせ、王座の隣に寝椅子を作らせ、碧玉を填め込んだ、あの麗しい玉座に共に立ちたいと願う。
髪には金粉を撒き散らせ、真珠の螺鈿の耳飾がいい。
二人で永遠を見続けるための、月光の水鏡も用意しよう。勿論、黄金の龍との血の交わしも行うのだ。服は似合う桃色。だが、こんな麻衣でなく、上等な絹の着心地に、花芯は驚き、水晶を抱え、私に微笑む。
その時は、大嫌いな天帝の正装で共に婚式を挙げよう。そうだ、なかなか袖を通せない銀天帝服が良い。桃に、銀。月夜に輝く果実の如く、美しく輝き続けるだろう。
不機嫌な花芯の声が響き、幻想の世界を打ち壊した。
「何かご用事?」
またしても夢に囚われたままだった状況に気づき、香桜は髪を横笛で掻き上げた。
花芯は桃尻を揺らし、そわそわと口元を弄くり倒している。
「しかし、きみは、どうして今夜の天武の相手がわかるんだ」
花芯は頬を染め、俯いた。
「札を運ぶ小姓の一人に、口づけを以て、報告させていますの」
策略とは言えないまでも、花芯は多少なりとも腹が黒い。
(それでこそ、俺の見初めた女だが、少々、甘い)と香桜は花芯の肩に手を置き、にっこりと笑って見せた。
「被り物は止めたようだね」
「天武さまが美しいのになぜ隠すのかとお聞きになるのですわ。少し、頑張ってみようかと口紅も変えましたの。父が山ほどお化粧品を贈って来るのです」
なるほど、あどけない表情に、ほんのりと色気を感じたのは、艶やかな唇のせいだ。
何が行われているのか、まだ知らない花芯は歩き回っては、部屋を覗こうとしていた。
――ならば教えてやるのも、天帝の一興。
ひょい、と腕の水晶を取り上げると、一目散に追ってきた。
やはり足は尋常でなく速い。気がついていないが、僅かに飛んでいるようにも見える。龍の子供が遊ぶ浮遊に似ている。
「お返しくださいませ!」
水晶を片手に持ち、香桜は髪を揺らしながら後宮を駆けた。何人もの宦官が天武と遥媛の部屋に飛び込んでゆこうとするのを、眼で捉えた。
部屋に立ち塞がった香桜は一際高く、笛を鳴らした。宦官たちはうっとりと眼を伏せ、肩を組んで、秦の歌を歌い出し、やがて柱に寄りかかり寝入った。
宦官たちを足で退かし、香桜は牀榻のある部屋には入らずに、細い分かれ道を選んだ。
小さいが、覗き穴がある。どこの暇な男、もしくは女が開けたのかは知らないが、角度からして、覗くために開けたものだ。香桜はちょい、と花芯を促した。
「天武さまが何をしてるのか、見せてやる」
花芯は疑いの眼差しのまま、しぶしぶ壁に懸かっていた薄布を捲り、顔を近づけた。後で、眼を見開いたまま、香桜を見上げてきた。と思うと、また覗いた。
「あれが、おまえのお慕いする天武さまの本性。まあ、男は大抵、女を喰うものだけど」
手を伸ばしてみるが、花芯は頬を赤くさせたまま、振り払おうとはしなかった。
見開いた双眸を片手で隠し、緩く開いた甘えたな口を己の唇で舐めねぶると、花芯は熱い吐息を香桜の中で吐く。
――この娘、欲しいな。
むろん、醜い精神で、肉棒を突き立てるような野蛮な地上の人間とは違う。
天界での契りとは、命の交換だ。永遠を分かち合う時に行う儀式でもある。
天帝と結ばれた女は、天帝妃となる。地上など、捨てさせてやりたい。
ふと香桜は手を止め、姿を消した。円蓋に移動して中を覗くと、煙の如く消えた相手を探して、花芯が慌てふためいている。
ああ、楽しかった。
「共に来い……か。俺には言えないな……」
散々贅沢を促した瞳に、牀榻に残され、少し悲しげな遥媛を映す。
消えゆく命の灯に思えてならなかった。
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