斉の王太子――白銀に染まり行く海で
「知ってんだよ。秦の王」
ぼそりと姫傑は口を動かした。
「趙政っていう幼少に趙にいた人質のガキだ。小汚かったぜ。俺は嫌悪感すらしたね。そのガキが秦の王だと? 悔しくてなんねぇよ。趙の連中はシッポ振りやがった!」
ざしゃ、と砂浜に両手を叩きつけ、棍を粉砕するかの如く、強く握った。
「梁諱。俺はいつか、王になる。絶対だ。どんな手を使おうと、どんな卑劣な男になろうと、だからおまえは生き存えろ。斉の王の策略に乗るんじゃねえ」
斉梁諱は頷き、最後に言った。
「褒姫を頼む」
まだ言うかと姫傑は脱力した。
「俺だったら、秦に行けと言われた時点で、莫迦野郎と怒鳴って、愛妾を連れて逃げる。どこか遠くで好きな女と暮らしたらいいじゃねえか」
「いってらっしゃいと言われたからな。そうそう、姫傑」
梁諱は遠くの山に向けて、眼を細くさせた。
「あの山は斉で唯一の霊峰だ。仙人の住処があるという」
「ああ、山を作っただの、海に潜っただの、空を飛ぶだのいう不思議なお方たちな」
「斉に伝わる伝承だ。霊威山、琅邪山には仙人と毒の華がある。伝説ではあるけど、君の馬力なら入れる」
「何が言いてえんだよ」
「まあ、わたしの戯れ言だ。気にするな。夜が明けてから進め。朝の海を一緒に見よう。わたしも祖国の海を眼に焼き付けて、出立したい」
梁諱は男だてらに、美しい頬を海に向けている。頑なな横顔は、姫傑が何を言おうと曲げはしない。斉梁諱は意志を曲げない男だと知っている。
「わたしは、妹一人に国の運命の重責を背負わせた決断が、何より心が痛かった。だが、斉の街に再び秦の手が伸びた。つまりは、遥姫の輿入れは今や無効だという証明だ。いずれ遥姫は殺され、斉は亡びる。その前に、君に渡したいものがある」
朝靄の中、斉梁諱の鎧が反射して輝いた。その手には、白い布があり、解くと、掌に収まるくらいの珠が出て来た。
「こんな業を冒したから、斉は亡びるのかも知れない。龍珠だ。金に赤い色をしているのは、仙力が込められたところで抉り取ったせいだな」
ころん、と掌に龍珠が転がって来た。ほんの少し、柔らかい。
淡い金にうっすらと伸ばした血のような朱が流れ込んでいる。光に翳すと、燃えるような紅にも見えた。
中央の瞳孔は見開かれたまま、美しい輝きを保っていた。
「なんだよ、これ……生きてるんじゃねえか?」
「君の手で返してやって欲しい。わたしは、この仙人の眼をもらう代わりに、秦への出立を了承した。可哀想な仙人を思うとね……」
「莫迦じゃねえのか! ほっときゃ良かったんだよ! こんな目玉なんか!」
「そうだな、その通りだ」
何でもねえように言うな……。姫傑は言葉を出せなかった。
二頭の馬が、海を共に眺めている。
夜明けだ。二人の会話は途切れ、後は静寂が夜を貫くばかり。
少しずつ白銀に染まり行く海を見つめている斉梁諱の瞳からは、涙がこぼれ落ちた。慰めすら、この男は必要としない。それでも目下に拡がる海を見ていれば、何とかなると思えてくる。矮小で、箱庭の中で悩む自分自身を、きっと何かが包んでくれると。
二頭の馬が背中を向ける。姫傑の目指す趙と、梁諱の進む秦の方向は一厘も一致しない。
やがて、斉梁諱の馬のほうが先に走り出した。
(梁諱。俺は、おまえが見事だなどとは、決して言わねえ。歴代で一番莫迦で、冷淡だと罵ってやる)
「戻って来なかったら、褒姫は俺が奪って、滅茶苦茶やるからな! 梁諱!」
〝おまえは、褒姫が好きだろう?〟
落ち着いた梁諱の優しい声が胸を打った。一頻り怒鳴り終える頃には、涙も乾いた。
手の龍眼を太陽に翳しているうちに、怒りが湧いて溢れ出した。
「こんなもん……っ!」
海に投げ捨てようとして、腕を止める。震える腕のまま、そっと手を下ろした。
龍眼には、姫傑の瞳と同じく、南西に聳える琅邪山だけが映っていた。
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